〈教育の多様性〉の会
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  <シリーズ>オランダの学校教育12 小国オランダが誇る言語教育
リヒテルズ直子さん

Date : 2003.03.13
Number : 012

ML ID : [diversity:1029]
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 オランダという国は、ヨーロッパの中でも小国の方である。そして昔からオランダ経済は、国を越え、海を越えての通商を主軸に支えられてきた。そのような背景があるためか、オランダ人は昔から外国語を学び、実際に使うのは当然のことだ、と考えてきたような節がある。年配のごく平均的な、言語学者でも外国語教師でも何でもないオランダ人が、英語かドイツ語かフランス語のどれか、または、複数を器用に使い分ける。
 数年前、ニューズウィーク誌が世界の学校教育のクオリティ調査を行った。言語教育については、オランダが卓越している、との評価であった。
 「英語」はいまや世界共通語で、オランダといえども外国語で最も重要なのはやはり「英語」である。英語教育は、学校によっても若干異なるが、大体小学校の最終の二学年(日本の小学校5年か6年生)くらいから始まっているようである。これに加えて、フランス語をやる小学校もあるが、まだ遊びながらの簡単な会話程度である。外国語教育は、中学になるといきなり量が増える。進路の別に関わらず、中学では、国語であるオランダ語のほかに、英語・フランス語・ドイツ語を習うのが普通である。
 大学進学コースでも特に古典教育を重視したエリート教育のギムナジウムでは、さらにラテン語とギリシャ語が加わる。異文化(移民)教育の規則では、移民の子弟はこれらの他に母国語を学校で学ぶことも認められている。かといって国語のオランダ語はもちろん、オランダ人の子どもと同じようにやらねばならない。だから、外国語だけで通常3ヶ国語、多ければ5ヶ国語を同時に学ぶということになる。ヨーロッパの言語は皆似たり寄ったりだから、簡単に学べるのだろう、という議論は当たらない、と思う。ハングルにしても中国語にしても日本語には近いけれど、そうそう簡単に学べるものではない、という程度の違いはある。ゲルマン系の言語とラテン系の言語では文型にも言葉の成り立ちにもかなり相違がある。
 国語であるオランダ語も含め、オランダの言語教育は、「読み」「書き」「話す」の中でも特に「読み」に大変力を入れている。文法を軽視している、というわけではない。始めのうちは、どの言語も文法の基本を教室で学ぶ。しかし、それ以上に、日本の英語教育のように、単語を類義語で置き換えたり、文型をいくつもに分類してみたり、というようなドリル式の訓練はあまりやらない。ある程度の基礎が出来たら、徐々に「読み」の量と速さが求められる。
 読むための教材にはほとんど規制がない。小学校の国語教育でも、中学以上の外国語教育でも、読みの教材はできるだけ自分で選べるように工夫されている。図書館の本、雑誌、などのほか、教材用に、それぞれの外国語の母国が発行した記事や読み物を小冊子にして課題にしたりする。
 「読む」ことによって、語彙は確実に増える。文脈から単語のニュアンスも自然につかめてくる。何千語もの単語や切り取られた文章を文型として繰り返し覚えさせられる日本の言語教育の効率の悪さが良くわかる。

付録 オランダ通信([LINK])より
 国語教育と外国語教育(「オランダ通信」第11号、2000.10より転載)
 国語教育、つまりオランダ語の教育のことです。別にこれはオランダに限ったことではないと思います。私の知る限りアメリカンスクールの、つまり英語の国語教育でもそうだったのですが、いわゆる小学校の低学年の間は、アメリカンスクールでもオランダの学校でもとにかく「本を読むこと」「それを習慣づけること」に大きな重点をおいています。
 昔から小学校の教育は「読み」「書き」「算」を覚えさせること、といいますが、日本の小学校の場合、「読み」と「書き」それに加えて「文法」や「文学史」のようなことまで全部ひっくるめてひとつの教科書にまとめられ「国語」としていますよね。そしてその中に出てくる「読み」の課題は、有名作家の作品のごく一部であり、同年齢の生徒は本人の性向や能力に関わりなく同じ文章を読まされます。夏休みなどでも補習授業や宿題でおちおち本に浸っている時間もありますまい。
 オランダでは、「読み」は「読み」、「書き」は「書き」で別の時間を設けているようです。特に「読み」についてですが、これには指定された教科書などなく、実際に本を読むことに慣れて行きます。教科書を使うのは「韻」の同じ単語を覚えたり、語彙を増やしたり、いわゆる、「文法」に関する練習をするワークブックのようなものに過ぎません。
 小学校の低学年の間、子供たちは読んだ本を記録する小さなノートをもらって、学校の図書室などから自由に本を選び(勿論自宅で好きな本を選んでもよい)、一冊読んだら書名、作者名、を記し、自分の感想を書いていきます。学校によってやりかたは色々でしょうが、「読み」の学習が量をこなすことに結び付いていることと、自分が読む本の選択にかなりの自由があること、は確かでしょう。
 声を出して単語を一つ一つきちんと読んでいくことも低学年では重視されます。アルバートとパトリシアが通っていた小学校では、読みの時間になると、学年に関係なく読みの能力の程度にしたがって3−5人ずつくらいの小グループに分かれ、ボランティアの父兄(時にはおじいさんやおばあさん)の指導のもとで声を出して本を読む練習がありました。
 オランダでは随分前から「読解困難症(dislexia)」という学習困難の型が認められています。研究によって5人にひとりくらいの割合で現れることの分かっている学習障害で、遺伝傾向があることもわかっています。この障害を持つ子供の場合、単語を構成しているアルファベットの文字がきちんと整列せずスープの中に散らばってしまったような状態で認知されるそうで、そのために、文章を読むのに人の何倍もの時間がかかるといいます。しかしそれだからといって他の知的発達に遅れがあるという連関はなく、要するに「読み」で援助をすれば他の面では他の子供たちと同じように発達させることが出来るのです。
 上に述べたようなグループ別の「読み」の練習にはこのような子供の存在も前提にされた上でのことなのです。本屋さんの児童書売り場に行くと、その本の内容にしたがって「00才児用」と書かれている本がたくさんあります。「読解困難症」の場合、子供はそれ以外の点では知能や精神年齢の遅れはないのですから、読めないからといって幼児用の本では子供の精神発達に準じない、という理由で、「読みやすい単語を使ってはいるが内容はその子供の実際の年齢に適した本」というのもたくさん作られています。ついでながら「読解困難症」のこどもは他の科目でもハンディキャップがあるので、例えば試験などでは他の子供より長い時間をかけることを許される、などの配慮がされています。
 さて、言語教育としてオランダで大きな比重を占めているのは外国語教育です。昔からヨーロッパの真中にあって商業を行い周囲を大国に囲まれてきたオランダは、誰もが外国語を話すのは当然、お年寄でも八百屋のお兄ちゃんでもひとつや二つの外国語をこなすくらいはそれほど珍しいことではありません。昔から外国語教育がしっかりしていました。
 現在は、小学校の高学年でほとんどの学校が英語を教え、中学一年からフランス語、二年からドイツ語、というのが主流です。大学進学準備教育の、中でも特に古典的な学科や学術的な方向を目指す子供達の教育を行なう「ギムナジウム」では、ヨーロッパの言語、文化、歴史、および学術用語に影響のあるラテン語とギリシャ語を教えます。
 したがって中学二年までに大半の子供は英語、フランス語、およびドイツ語という、いわゆる「現代外国語」を学び、「ギムナジウム」に通う子供はこれにさらにラテン語とギリシャ語を習う、ということになります。
 ヨーロッパの言語だからお互い親戚のように似たもの同士だろうと思われるかもしれませんが、オランダ語と同じゲルマン系のドイツ語はともかく、他の言語は、大変大雑把な言い方ですが、日本語からすると中国語や韓国語くらいの差はある、といえましょう。
 さて、これらの外国語教育ですが、勿論国語のオランダ語と違ってはじめは文型や動詞の変化など文法が大きな比重を占めますが、少しずつ読めるようになるにしたがって、これもまた「読み」の量と早さが求められるようになります。
 日本の英語教育の問題点としてよく「読み書き中心で会話ができない」というようなことが言われますが、「読み」と「書き」は果たして本当に実践的な力をつけるところまでいっているのでしょうか。
 「外国語を学ぶ」ことの意義は、そもそも自国以外の文化的背景を持つ社会からなにものかを学ぶため、ということに他なりますまい。であれば、外国語は飽くまでも手段であって、行き付くところはそれを手段として知識を吸収したり、その言語を用いる人に自分自身と自分の拠って来たる社会の事物を記述し説明する力を持つことでありましょう。
 受験戦争にゆがめられた日本の中等教育での外国語教育の典型は「豆単」などを使って「単語を何千語も覚える」ことでしょう。今思い返しても3000語だの6000語だのという単語をただ丸暗記するために、なんと夥しい時間を費やしたものだろうか、とため息が出ます。同じ時間とエネルギーを、躓きつつでもよいから実際に本を読むことについやしていたなら、、、、。そうしていたらきっとその言語の持つ社会の文化や、はたまた文中に繰り返し出てくる単語や文学そのもののニュアンス、その社会の人々の感じ方や考え方をもっと若い時から吸収できたのではないか、と思わざるを得ません。

 
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