〈教育の多様性〉の会
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  オランダの教育−2
小貫大輔さん

Date : 2002.12.03
Number : 002

ML ID : [diversity:0500]
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小貫大輔です。
オランダの教育について、リヒテルズ直子さんの講演(オランダ語)の日本語訳を送っていただきました。「オランダと日本における『歴史教育』の比較考察―戦後日本の歴史教育の問題、オランダの歴史教育から学ぶこと」というものですが、その中から、教育の制度一般について比較した箇所だけ抜き出して引用します。おもしろい。
リヒテルズ直子さんのHPは以下の通りです。
[LINK]
オランダの教育: リヒテルズ直子
オランダの学校制度において、最も重要なキーワードは「教育の自由」ということだと思います。オランダの文部省は「教育の自由」の内容を「設立の自由」「教える自由」「教育(teaching)を組織する自由」という3つの自由で説明しています。この、オランダ の学校制度の最も重要な原理としての「教育の自由」はオランダにおける学校の発展の歴史と深い関わりを持つものです。オランダの学校は、種々の主要な社会的集団による教育への取り組みによって生まれてきたものです。これらの社会的集団は、よく"支柱(zuil)=オランダ縦割り集団"と呼ばれるものです。個々の「縦割り集団(zuil)」は、社会の政治、経済、社会的諸事項について独自の倫理観や思想を持っており、したがって教育がどのように組織されるべきかということについても独自の考えをもっています。これまで主要であった、また、現在も主要とされている4つの「縦割り集団(zuil)」とは、カトリック集団、プロテスタント集団、社会主義者の集団、および、自由主義的集団である、と私は理解しています。個々の「縦割り集団(zuil)」は学校の 構成、教育の内容、教材、教材の使い方などについて独自の考えをもっており、これらの縦割り集団の学校は、政府によって、「私立」学校として認められ、政府から補助金を獲得してきました。だからオランダでは、多くの学校が時代の流れとともに、互いに似てきた面はあるとしても、教育の内容や方法に比較的大きな多様性があるの が当然で、市民は自分の子供のために最善の、少なくとももっとも適切だと思われる 学校を選ぶことが出来るのです。これがオランダにおける「教育の自由」の中身です。
ところが、日本には、そういう「教育の自由」は存在しません。これもまた、日本の学校制度の成り立ちに起因するものです。
日本の学校制度は、鎖国終了後の明治期に、種々のヨーロッパの制度を模範にして作られたものです。しかし、日本政府が模範にしたのは、枠組みであり、形であり、必ずしも中身ではなかったのです。何よりも大きな問題は、学校制度が、「政府」によって上から決められたものであったということです。「何を学校で教えるか」「どう教える か」といったことまで、文部省が取り決めてきたのです。
今説明した事情は、いわゆる「公立」校と「私立」校の発展が、オランダと日本の間では大変異なったものである、ということにも関係します。オランダでは、まず、種々の教育に関する思想とか哲学に基づいてさまざまの「私立」校が出現し、それから、教育を受ける権利を保障するために「公立」校が現れてきています。私的団体を教育主体とした、「bijzonder」であるのが当然で、方針と方法を明確にした特徴のあるものです。
ところが、日本では政府によって指導された「公立」校が、あくまでも最も「正当」であり「主流」であり最も「重要」なものとして初めに存します。その後に発展してきた「私立」校はずっと小さな権限を持っています。「私立」校が政府の補助金を必要とするのであれば、出来るだけ「政府」の定める条件に従って、教育の内容や方法を適用しなければなりません。
それでは「教育の自由」という言葉は日本では聞かれないのか、というと案外そうでも ないのです。「自由」という言葉は、戦後の日本がおそらくシンボルとまで感じてきたに違いない言葉で、学校の職員室とか廊下とか、教育委員会の会議室とか、職員組合の部屋とか、いたるところに見られる言葉です。
では、日本では「教育の自由」をどのように理解しているのでしょうか。
実は、ここに少し厄介な問題があります。Vrijheidという言葉は日本では「自由」という言葉で訳されますが、実は「自由」というと単にvrijというだけでなく、「束縛されない」、あるいは「中立的」の意義ももっています。
3年程前、日本の中学校の社会科教師たちの会合に招かれて情報交換する機会を持ったのですが、そのときに「『教育の自由』をどのように理解しておられますか」とたずねましたところ、一人の教師が「教育の自由というのは、生徒に特殊な思想を押し付けないことだと思います」と答えました。これはオランダで理解されているのと正反対のことです。
私は先ほど、「自由」という言葉が戦後の日本の「シンボル」のような言葉だった、と申しました。戦時中、日本人は、「天皇の写真」を崇め、「天皇の家系を辿る歴史を学び」「欧米の植民地支配を悪とする」という考えを押し付けられました。敗戦で、多くの日 本人は、そのような全体主義の鎧のような考えから、「やっと開放された」「自由を与えられた」と考えたのです。だからこそ、どんな「思想」にも染まってはならない、「ニュートラル」であることが大事だ、と非常に強く考えました。もはや追随させられるのではない、中立で居るのだ、というのが戦後の日本社会の絶対的な価値となりました。
けれども、それでは、誰がこの「中立」を保障するのでしょうか。だれが、自分たちの自由、思想における中立性を守るのでしょうか。それは、政府の役目でありました。政 府の最も重要な機能の一つこそは「中立性」の保障ということでした。私は、この考え方は日本人の大多数によって非常に容易に受け入れられたものであると思っています。 政府が国民に伝えることは、「偏見がなく」、「中立的で」いかなる思想からも「自由」で ある、というわけです。 
(この後、教科書の話に続くのですが、ここまでとします)

 
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