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Re: education and politics
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古山明男さん
Date : 2002.09.30
Number : 005
ML ID : [diversity:0297]
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竹村さん
レスをありがとうございます。ちょっと違うスタンスから言葉をもらうと、助かります。
竹村さん wrote: 歴史あるいはどこの国をみても、完全に政治と教育は分離していません。そして、教育がまた政治を作るのだと思います。
その通りです。分離していません。政治と教育の関わりは、いくつかの層に分かれている思ったのでまとめてみました。
1 子どもの育つ環境としての政治
歴史的に、子どもは、社会の中にいることで育っていった。社会には常に政治があり、子どもは政治の中で育っていったとも言えます。
地主と小作人の関係が、子供同士にも反映したりするわけです。
子どもを、学校の中にぜんぶ囲い込んでしまったことが、歴史的には、目新しいことです。
子どもをみんな学校の中に囲い込んだことは、プラスもマイナスも大きいと思っていますが、いちばん大きいプラスは、子どもを社会のパワーポリティクスにさらさないようにしたことです。地主と小作人の関係を持ち込まれない場を作りました。階級社会の国では、学校の意義はものすごく大きいと思います。
逆に学校内の教師ー生徒、生徒ー生徒、のパワーポリティクスに社会からの伝統や常識が届かなくなった。いじめや不登校は、たいてい学校内パワーポリティクスの被害者です。直接的な場合もあるし「雰囲気がたまらなかった」という間接的な場合もありますが、「かれらはパワーポリティクスの被害者です」と言い切ってもいいような気がします。
学校は、力関係に頼らず、理性と友愛にもとづくかなければなりません。それでこそ、親が、子どもを学校に行かせたくなるし、子どもも学校に行きたくなります。
ところが、官僚機構に監督されている教師は、どうしても上に対する対応が最優先します。官僚機構は給料と人事権を握り、指揮権もあるわけです。たいていは、指揮権を発動されないように、現場側で自己規制します。というか、あんまり自己規制もしないで、きちんとした報告書だけ作ります。
教師と学校が、子どもと親に直接に責任を取るようにしなければいけません。子どもも親も、現場を知っていますから、これは、形だけ作るなんてできません。ちゃんと言行不一致を突いてくるし、また協力もしてくれます。
教育では、子供が、パワーポリティクスの波にさらされないように保護することが、とても重要です。力関係によらず、信頼によって伝えることなのです。パワーポリティクスにさらされると、子どもは、攻撃的になったり防御的になったりして、教科の修得どころではなくなります。子どもは、理解力がかじかんだような状態になって、行動が、本能的になってきます。子ども自身の対応能力を超えると、退行現象みたいなのもおこります。
だから、学校内がパワーポリティクスの巣窟になってしまっているなら、ただ家で遊ばせていたほうが、はるかにいいです。
一定の能力を全員に修得させなければならないとなると、教師はパワーポリティクスを使わざるを得ない。体罰は禁じられているから辱めを使う。子供同士を競争させたり、ご褒美や罰を出したりする。これじゃ、なぜ、学校に行かせたのか、意味がない。
そこで、現場教師が、柔軟にカリキュラムを編成したり、変更したりする自由、自分の判断で現実に対応する自由を持つ必要があるわけです。もちろん、教師の成熟が伴わなければ、使いこなしようのない自由です。
2 教育行政
公立学校と補助金が存在するかぎり、教育行政がなんらかの形で存在して、政治と教育をとりもちます。およそ、予算執行を伴うことがちょっとでもあれば、教育行政はどうしても必要になります。そういう意味でも、政治と教育は分離しません。
というより、教育行政は、学校という文化的世界と、政治的経済的世界の接点です。積極的にその意義を認めるべきです。
3 政治による教育のコントロール
しかし、政治と教育が分離しないことを、政治による教育のコントロールという意味だとすれば、われわれが、いかにそれから脱していくかが課題だと思っています。歴史上の幾多の悲劇は、教育が政治によってコントロールされていることに原因があると思います。人々の健全な判断力が育たないのです。
広い意味で、子どもをその国の人間として育てるにはどうしたらいいか、という問題です。次の時代の、その国をになう人たちとして育てなければなりません。子どもが政治に関心を持ち、参加していくように育てます。しかし、年齢による考慮が必要だと思っています。14,5歳くらいで切り替えるんだと思います。個人差がけっこうありますが、だいたいそのくらいです。
そこから、大人として公民としての判断と行動をお願いしていく。
これは、外から見ていても、その子に自我ができた、大人になったというのがはっきりわかるので、そこから、対応を切り替えていくわけです。
公民教育の基本は、「君たちはこう振る舞わなければいけない」ではなくて、「君たちは、この社会をどうみるのか」でなければなりません。それによって、新しい社会が生み出されていくのです。
健全な政治が形成されるには、この、「君たちは、この社会をどうみるのか」が、実り多いものでなければならない。健全な精神をもつ人間としてすでに育っていなければならない。それで教育を政治に優先させる必要が出てくるわけです。
4 社会からの要請を反映させるという政治
教育も、その時々の社会の要請に無関心というわけにはいきません。その社会で生きていけるように、子どもたちを育てるのですから、職業教育、基礎技能教育は必ず大きな位置を占めます。そこに、時代の要請、つまり、いまコンピュータ技術者が大量に必要だとか、簿記ができる人がたくさんいないと、産業社会を維持できないとか、そういうことも反映されてきます。
私は、14歳までの教育は、社会や時代の要請を反映させようとしない方がいい。(自然にかなり反映しますが)。子どもの中のものに焦点を合わせ、それを引き出してくることを、教育の柱とすべきだと思います。
昔、14歳くらいで元服させていましたが、これはよく理解できます。そこまでは、あんまり責任をかぶせると、負担が大きすぎます。子どもとして保護していたほうがいい。それ以降は大人としての責任を修得してもらったほうがいい。
このくらいの年齢だな、でも、そこまで成熟できている子は少ないな。そんな風に感じています。
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