〈教育の多様性〉の会
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  Re: 教育権について
柳沼さん

Date : 2002.12.8
Number : 015

ML ID : [diversity:0545]
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みなさん、古山さん、こんにちは。さいたまの柳沼ともうします。
いぜんちょっとだけ発言してずっと引っ込んでおりましたが^^);、ちょうどその時の問題と繋がる話題が古山さんから提出されていましたので、またでてきてみました。わたしは実は、育児や幼児教育のメーリングリストでは、あまり学校や教育問題については話さないようにしています。それは、親たちが子育てを通して、教えること、あるいは学ぶこと、それから子どもたちのお手本となりつつ一緒に生きていくという意味について、それぞれの親子に見合ったペースで、自分の足元から自然に積み上げていくための時間を、できるだけ尊重したいと感じているためです。ですから、教育の問題について正面からきちんと論じられる場というものが生まれるまで、いくつかの問題についての議論は、これまでずっと棚上げにしておりました。しかし、今回はちょうど良い機会のようです。こちらのMLには、幼児MLでかつて論客だった方も大勢参加されているので、お手柔らかにお願いします^^);
古山さん wrote:
Subject: [diversity:0532] 教育権について
『教育基本法の理論』の中で、田中耕太郎がものすごく根底的な問いかけをしています。紹介します。
***********
我々は教育権そのものの根本に立ち入って考察しなければならない。
およそ人間は自由であり、他人の干渉を受けないで己の欲するままに生活する自由と権利を有するものとするならば(もちろん他人の権利や自由を侵害しない範囲内において)、教育を受けると否とは各自の自由であるのが当然である。
自己に対する教育権者が、あるいは両親にしろあるいは国家や教会にしろ、別に存在することは、特別の理論的基礎を必要とすることになる。
トルストイは、人間が何故に人間を罰し得るかを問題とした。教育を与えることは刑罰と異なって恩恵であるが、しかし恩恵といえどもこれを強制して課することについては同様の問題が存在する。
この故に我々は人間が何故に人間に対して教育権を有するかを問題としなければならない。
(『教育基本法の理論』 田中耕太郎著 p150)

まさにこの問題なのですが、法の問題では、この場合の権利がすぐに義務の問題にあわただしく言い直されてしまうことがあんがい多かったために、その権利の主体がなかなか見えにくくなっていたかと思います。そして、義務教育という言葉だけがこれまで長い間一人歩きしてきて、教育問題についての根本的な議論が沙汰やみになってしまいがちだったのも、きっと理由のないことではないのでしょう。
現在の大まかな図式でいいますと、教育権は親のものか、あるいは国家のものなのか、その次元での議論で終始することが多いように思われます。そしてこのことが一番重要なのですが、教育権を市民の手に、と言い直してみたところで、これはたいへん悩ましいことなのですが、たぶん問題の根本としてはあまり大差がない^^); 自己教育という言葉だけが、それらの矛盾を免れることができるわけです。
自己に対する教育権者が、(自分以外に)別に存在すること
これは、当事者以外のエージェントの問題ですね。成熟した市民社会では権利の代行者の存在というものを、きわめて当然のものとして受けとめてそれを保障する慣習が確立っしてます。議会政治にしろ弁護人制度にしろ、既成事実には枚挙にいとまがありません。ですから、親なのか地方自治体なのか国家なのかあるいは市民なのか──、AなのかBなのかCなのかDなのか、教育権のエージェントとしては誰がいちばん適任なのか、という現実的な議論へ、教育権の本質の論点がすり変わってしまいがちです。
ですが、やはり教育権の真の主体というものは、法的にはまだその能力がないとみなされているにせよ、やはり当事者本人のもの、子どもたち自身のものであることは、これは疑いようもありません。そして、ここであくまで派生的な問題になっていくものが、主体としての自覚が生成過程にあるものの権利意識を誰が代弁=代行できるのか、という問題なのでしょう。つまり問題は二重になっていて、最初に教育権の問題があって、次にその代行権の問題がある、この順番であって決してその逆ではない。
ここで出てくる問題を、私なりにちょっと整理してみます。
法や哲学では、問題の種類を<権利問題>と<事実問題>とにわけて考える習慣があるようです。この場合の権利問題とは<本質>にかかわる問題のことです。事実問題というのは、本質というよりはそれにかかわる現象の問題。ここではちょっと拡大解釈をして、現実的に実行可能なソリューション、あるいはそれを実現するための効果的な手法、タクティクスの妥当性まで含めて考えてしまってもいいのかと思います。
つまり、以下のようになります。
権利問題:教育権はあくまでも当事者の子どもたち自身にある
事実問題:国家が十全に機能しないのであればそれは市民の手が代行する
問題のアスペクトは、この2つです。そして、それを統合していく見方がその後の問題として要請されてきます。そのためには、まずはそれぞれ個別にきちんと論じわける必要があるのだと思います。で、その仕組みは、このアライアンスメーリングでは、用意周到にも、スタートの時点からちゃんと用意されていた^^);
私の認識では以下のようになっています。
教育権の権利問題:子供時代のためのアライアンスML
教育権の事実問題:教育の多様化アライアンスML
子供時代MLと教育多様化MLとが、車輪の両輪のように機能するもの、と考えられていたのは、以上のような事情によるものだと思います。その点、ちょっと確認させていただきました。しかしながら^^);、教育多様化のほうが、メルクマールやタクティクスについて、これだけ活発な話題がでているのにもかかわらず、子供時代に固有な話題のほうはやや開店休業中というのは、これは痛いところです^^);
ところで、古山さんが(田中耕太郎さんが)提出された問題ですが、
トルストイは、人間が何故に人間を罰し得るかを問題とした。教育を与えることは刑罰と異なって恩恵であるが、しかし恩恵といえどもこれを強制して課することについては同様の問題が存在する。
今の議論では、強制して課さない=そのための多様化、という視点が優勢かとは思いますが、しかししつこいようですが、それはあくまでも便宜的に、国家vsさまざまな価値観を持つ市民という観点だけの問題整理であって、教育権の真の主体となる当事者の権利問題は、やはり保留にされています。すなわち、依然としてここでの問題の核心は以下の部分です。
自己に対する教育権者が、あるいは両親にしろあるいは国家や教会にしろ、別に存在することは、特別の理論的基礎を必要とすることになる。
ここでは<理論的基礎>といわれているわけですが、しかし、どうやってみてもその根拠となるものは、法学の理論づけからは出てこないもののように、私には思われます。たぶんそれについては、前提となるような理論からではなくて、法的な根拠とはもっと違ったものから考える必要があるんでしょうね。吉良さんがさいきんよく語られている<おおい>という言葉には、大人の静かな見識や愛が、そして理論的な理性というよりは実践的な理性の存在が感じられますが、きっとその辺りに起源があるもののように私には感じられます。
ですからたとえば、貧困的な困窮から、子どもの生存が危機にさらされている、という特殊な状況の中で、子どもたちの緊急避難的な行動を支援しつつ相応しい教育を模索する場合には、まったく矛盾は生じないのだと思います。そうではなくて、教育的な見識の貧困から、時間をかけて長く慢性的に病んできた日本の社会のような場所で、目には見えにくい危機観をどれだけ多くの人が共有できるのか。子どもたちの疎外された意識を、大人たちがどれだけ自分の痛みとして捉えて、受けとめていける想像力があるかどうか──、ここには法的な証言力などは全くないわけですが^^);、でもきっとそのへんでしょうね。

 
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