〈教育の多様性〉の会
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  教育と政治
古山明男さん

Date : 2002.9.25
Number : 012

ML ID : [diversity:0262]
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古山です。
 田中耕太郎の「教育基本法の理論」は、とてつもない研究であることが、だんだんわかってきました。
 われわれが現在必要としているものが、ほとんど入っています。国家カリキュラムの束縛からも、官僚統制の砂漠からも、連れ出してくれます。
 大筋を言うと、教育は、私的なものであることが本来の性質である。家庭教育と私学が教育の本筋である。教育は文化的創造行為である。文化的活動として、法の外にあり、道徳と教育学的技術によって支配されている。公教育は、家庭教育や私学教育を補完するものだと捉えています。
 教育が文化領域にあるもので、国家管理されるべきでないことをはっきりと主張しているのは、私が知っている範囲では、ルドルフ・シュタイナーと田中耕太郎だけです。
 田中耕太郎のこのような研究がすでに存在していたことにも、またそれがほとんど見捨てられていたことにも、驚いています。
 かんたんに読破できる本でもないので、読みながら紹介していこうと思います。
 第1章 緒論 の中の”第3節 教育と政治”から、大事な部分を引用します。
 読みやすくするため、行間をあけましたが、「 」内は、ひとつながりの文章です。
「 民主国家の教育に対する態度は、宗教や芸術や技術等文化の他の諸範域に対する場合と同じく、原則として不干渉主義をとっている。これらの諸範域に対して、国家は間接管理、すなわち価値の創造を専門家に任せ自らはただ助長、奨励の立場をとり、直接管理すなわち価値の創造自体に立ち入って干渉する態度をさし控えているのである。これは補充主義(Subsidiaritatsprinzip)といわれているところのものである。この意味において教育は、たとえ国家の機能として行われる場合においても、行政の他の範域例えば警察や財政や経済に関する政策の遂行と大いに異なるものがある。この教育的活動は前に述べたように、教育者が被教育者に働きかけるきわめて個人的な性質のものであり、芸術家や宗教家のそれに類似するものであるからである。それは官僚的な統制、指揮命令に親しまない創造的の活動である。それは国立大学について政府に対する自治が認められ、また国家権力を行使する裁判所であって独立の地位が保障されているのと同様である。教育の独立、とくに教育に対する官僚的干渉の排除は、現代民主国家の根本的理念の一つである。」
(「教育基本法の理論」田中耕太郎著 有斐閣 1961 32〜33頁)
「我々は教育の独立および優先の原則を承認し、これを政治生活上において実現しなければならない。これは司法と並んで民主政治の一大支柱をなすものである」
(同 33頁)
「教育の独立及び優位は人格の尊厳と自由と完成を重んじる民主政治の基本原則である。民主主義と正反対の世界観に立脚するファッシズムおよび共産主義においては、すべてが国家目的に奉仕せしめられ、教育もこれに対する手段にすぎないからして、教育の独立や優位は存在し得ないのである。ファッシスト国家や共産主義的国家においては、その全体主義的独裁は教育をふくめて文化全体にも推及せられる。かような体制の下において、教育の自由は否認され、教育は個人の創意を奪われ、国家的独占に移され、経済と同様に官僚主義的統制に服せしめられ、国家は溌剌とした生気を喪失するのである。」
(同 34頁)
「教育は民主主義的人間を育成しなければならない。しかし民主主義的人間は、教育が目的とするところの完成した人格の部分的概念である。それ以外に教育はもっと多くのものを要求する。宗教的、学問的、芸術的人間は、民主主義的人間の中にはふくまれていないが、教育の目的には入ってくるのである。道徳的な人間にしても、民主主義の要求するところのものは、平均人の水準以上には出ないのである。しかるに教育の目的としているところの完成した人格において、道徳的の要求は無制限である。かような人格者を育成することによって教育は民主社会に貢献するのであり、直接に民主主義の理論と実践を教えることを持って任務とするものではない。」
(同 35頁)

 
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