〈教育の多様性〉の会
  〈教育の多様性〉の会・メーリングリストより
■索引  ■前へ  ■次へ 
  田中耕太郎と教育基本法
古山明男さん

Date : 2002.9.24
Number : 011

ML ID : [diversity:0260]
■Mailing List
「教育の多様性の会」は、市民が教育を創る自由と選ぶ自由を目指しています。「教育の多様性の会」のメーリングリストはこちら。
■Alliance for Childhood
子どもが、子どもにふさわしい生活や遊び、学びの環境を保障される社会づくりと取り組む「子ども時代のためのアライアンス」はこちら。
 
小貫さん
 私の引用が役に立って嬉しいです。
 なによりも、田中耕太郎氏が、あの世から喜んでくれるんじゃないかと思います。
 教育権独立の話は、田中耕太郎が主張したあと、あまり取り上げられていないんです。
小貫さん wrote: ――正義の実現と秩序の維持を目的とする司法権が政治よりの独立を主張するにとどまるに反して、教育はその積極的使命に鑑みて、単に独立性を主張するにとどまらず、政治に対する優位─教育優先の原則─を主張するのである。
 字句を確認しました。大丈夫です。
 出典は
「新憲法と文化」 田中耕太郎著 国立書院 1948第5章 教育政策
 第1節 総説
  2 教育と政治 その第62ページです。
ちょっと長くなりますが、田中耕太郎について解説します。教育基本法がらみで、おもしろい話がたくさんあります。
 昭和20年10月に、文相前田多門に、新日本建設のため、と口説き落とされて、東大法学部教授のまま、文部省学校教育局長に就任。この人の立場からすると、床の間に座っていられるのに、泥沼に飛び込んでいったようなものです。
 法学教授としては、商法の研究家でしたが、この人の商法研究は技術的なものではなく、国際法ができていった経過の研究です。社会と法律の関係そのものを追求していた人です。
 田中耕太郎が学校教育局長に就任したときが、ちょうどGHQ側も対日教育政策を実行する組織を整えて、指令を出し始めた時期にあたり、それを受け止める側として、多難な時期を乗り切ります。米国教育使節団が来たとき、文部省事務局代表のような形で対応しています。
 昭和21年5月、第一次吉田内閣発足とともに、文部大臣に就任。吉田茂は、文部大臣には学者をという方針があり、その後も学者を起用しつづけました。
 田中耕太郎は憲法が国会で審議されるとき、文部大臣として答弁に立っています。なお、憲法の教育条項は、田中の起草ではなく、宮沢俊義らの起草によります。
 国会での審議中に、ある議員から「憲法の中に教育の条項が少ないじゃないか。教育をかろんじているんじゃないか」と突っ込まれて、田中文相は、「憲法というのは政治的なものだから、その憲法で教育をあんまり縛るべきではない」、というような意味の発言をしています。そのついでに、教育の基本法制を目下研究中だと答弁しています。これが、教育基本法です。
 ちょうどそのころ、教育勅語の取り扱いが大問題になっていました。田中耕太郎は、教育勅語擁護派でしたが、大勢を察し、教育基本法という、国会議決を経たものに置き換えることを言い出します。教育基本法ができたのは、教育勅語が廃止された精神的空白を埋めるというのが、最大の目的です。しかし、その裏で、田中は、教育権が独立するようにと、手をつくしています。
 教育勅語の代替物であるため、教育基本法は、精神論的な色彩をかなり持っています。今でも、教育基本法を変えて日本人意識を高めよう、というような発想が出てくるわけです。
 教育基本法については、GHQ側がまったく関与しないまま進行しましたが、GHQの担当部局に回ってきたとき、日本側は精神論的なものととらえてたのに対し、GHQは、この法がいかなる権利を保障しているのかという読み方をし、「これならよかろう」と承認します。
 田中耕太郎は、文相在任中に教育権の独立を目指し、「大学区構想」というのを立てます。全国をいくつかの大学区にわけ、それぞれ帝大総長を教育の最高責任者とする、という案です。フランスの制度にならいました。これで、政治と官僚の介入を一切排そうとしたものです。
 「大学区構想」は、内務省の徹底抗戦に出あい、また、アメリカ側の教育委員会構想とぶつかります。結局、田中は折れざるをえず、教育行政は教育委員会方式に落ち着きます。教育委員会は、当初の目的では、文部省の権限委譲の受け皿です。
 47年2月、田中耕太郎は、吉田茂によって突然解任されます。吉田茂も「きみ、やめてくれ」としか言わなかったし、田中耕太郎も未練がましく思われたくないので「わかりました」としか、言わなかった。それでこの解任劇の理由は、諸説紛々として、真相は今も不明です。
 田中耕太郎が更迭されたあと、急に、4月からの6.3制施行が決まります。アメリカ側の強い要請によります。2ヶ月も時間がないので、大慌てで学校教育法を作り、教育基本法とともに国会審議にかけ、3月31日付けで施行して、新しい教育制度に間に合わせます。
 そのため、学校教育法は、憲法や教育基本法が入念に法の介入や官僚制との関係を考慮しているのに対し、まるで浅薄な法律になりました。それが、いまも、続いているわけです。
 田中耕太郎は、文相を解任されたあと、参議院の文教委員長として自分のてがけた教育基本法の審議に参加しています。
 その後、昭和25年に、吉田茂に最高裁長官に指名され、10年間これを務め、最高裁の基盤を作っています。
 昭和30年前後が、自民党、旧内務官僚、文部官僚たちの巻き返しが激しかった時代で、教育は官僚統制の方向に大きく振れました。このとき、田中耕太郎がなぜ、影響力を行使しなかったのだろうと疑問に思ったことがあります。考えてみたら、このとき、田中は最高裁長官ですから、政治に対して一切発言することができない立場です。発言したら、三権分立を侵します。
 それでも、田中耕太郎は、教育のことがずっと気になっていたようで、昭和35年に「教育基本法の理論」というぶ厚い本を出します。哲学、法学、歴史学を駆使した純学術的な難しい本です。この難しさは、政治的発言をすることを封じられた人の隠れ蓑だろうと思って、今、読み解こうと格闘しているところです。
 田中耕太郎は、最高裁長官辞任後、国際司法裁判所の判事就任のためすぐにハーグに飛び立ち、9年間この職にあります。
 一般的には、保守反動派の一人というように見られていた人です。

以下は、「世界大百科事典」のコピーです。
商法学者,法哲学者。鹿児島市生れ。1915年東大卒。17年同助教授,23年教授として商法,法理学などを担当。青年期,内村鑑三の無教会主義に属したが,やがてそれに疑問を抱いて26年カトリックに改宗した。第2次大戦後は教育行政に転じ,45年文部省学校教育局長,46年文部大臣,同年貴族院勅選議員となった。47年参議院全国区より立候補して当選,緑風会に属し文教委員長。また教員検定委員会委員として教職追放の実施にあたった。50‐60年最高裁長官。60年国際司法裁判所判事となり9年間の任期を務めた。商法の特質を〈商的色彩〉に求める理論を唱えたほか,商法の技術的性格のゆえに各国の商法がやがて同一内容を持つに至るとして世界法の可能性を主張した。また,カトリック自然法論の立場からの文明批判,マルクス主義批判など多くの独創的主張を唱えた。最高裁判事としては尊属殺事件,三鷹,松川,砂川事件などで革新勢力と対立した。60年文化勲章受章。著書は《世界法の理論》全3巻(1932‐34)をはじめ,《法律学概論》《教育基本法の理論》など多数。  長尾 竜一
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 
■索引  ■前へ  ■次へ