〈教育の多様性〉の会
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  国民学校令と学校外教育の廃止
古山明男さん

Date : 2002.6.29
Number : 008

ML ID : [diversity:0101]
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古山です。
昭和16年3月公布の国民学校令で、基本法制面での、大変化があったことを付け加えます。それは、明治以来の学校令は、家庭での教科履修を認めていたことです。戦前の教育法の骨格を作った明治33年の「小学校令」では第36条
 学齢児童保護者は就学せしむべき児童を、市町村立尋常小学校またはこれに代用する私立小学校に入学せしむべし。ただし、市町村長の認可を受け家庭またはその他において尋常小学校の教科を修めしむることを得。学校に来ないで、家庭で勉強をしてもいいよ、ということです。ただし、市町村長の認可が必要だし、学校の教科をやるんだよ。これが、実際にどのように運用されていたのかは、資料をみつけることができません。考えられることとしては、
・僻地などに、通学可能な学校を作りきれなかった?
・貴族や金持ちの子弟に、家庭教師をつけて教育する道を認めた?
・明治初期には学校がまだ整備されていなくて、民間の教育力(寺子屋的なもの)と併存していた。その一部がまだ存続していた?昭和16年の国民学校令から、この、家庭などでの教科履修を認める部分は消えます。これによって消滅した”家庭またはその他”の教育がどれだけあるのか、ないのか、まだ、資料に出会えません。戦後の「学校教育法」も「国民学校令」を受け継ぎ、学校以外での教育を認めません。
「学校教育法」は、さらに、就学させないときの罰金を持ち込みました。これは戦前にはなかったものです。戦前の、就学、不就学の問題は、ほとんどが、経済問題から生まれていました。子どもが貴重な労働力で、学校に行かせている余裕がないのです。戦前も学校に子どもを行かせようとする圧力は強いのですが、貧困家庭の現実に対して、罰金を課するようなことはできない。戦前は民間での「学校に行かせなければ」が、戦後ほど根付いていなくて、政府が笛を吹いても民間がついてこないところがありました。関連した話題で、戦前の私立学校の教育法・カリキュラムの自由は、どの程度あったのかという問題です。法的にはこうなっています。明治33年「小学校令」第23条小学校の教科目を加除し、または随意科目と為さむとするときは、市町村立小学校に在りては管理者、私立小学校に在りては設立者において、府県知事の認可を受くべし。すべて認可が必要なので、カリキュラムの自由は基本的にはなかった。しかし、個別には、府県知事(実質的には、府県の学務課)の意向しだいでどのようにでもなる余地があります。大正時代にけっこう自由主義的な学校ができた。戦争の時代になると、教育も戦争一色になった。それは、この法制に由来します。きっちりした法定主義をとらず、エラいさんの意向でどのようにでもなるので、運用にかなりの幅を生じます。戦後の法律が、教育をきっちりした成文の枠にはめようとしたのは、戦前が権力者の意向次第になってしまったことへの反省でもあります。一面、法律と規則の外骨格に縛られて、柔軟な対応能力を失いました。国法を変えない限り、カリキュラムも自由にならない。しかし、国法を変えるためには、多数派形成が必要になる。そのため、自由な試行錯誤ができなくなりました。

 
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