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古山明男さん
Date : 2002.6.19
Number : 005
ML ID : [diversity:0091]
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古山です。
1946〜1947年(日本の戦後教育の骨格が決まった、もっとも重要な時期)当時の教育をめぐる勢力がどうなっていたか報告します。すごく複雑な情勢なんです。完全にイニシアチブをとりきれている勢力は、どこにもありません。1 米国側日本はアメリカに占領され、軍政下に置かれています。もっとも強い決定権を握っていたのは、米国です。日本の教育に対して、直接の権限を持っていたのは、GHQ内にある民間情報教育局(C. I. E. Civil Information and Education )です。ここのスタッフは、皆、軍人であり、大尉とか少佐とかの階級を持っていますが、実質的には文民のスペシャリストの集団です。日本研究家、教育学の大学教授、元教育長、といった人たちを占領行政のためにスカウトしてきたのです。専門家集団であるため、GHQも、ほとんどのことは、ここに一任しています。C.I.E.の権限は絶大ですが、スタッフ不足にあえいでいます。なにせ20〜30人程度の部局で、一国の宗教、文化、報道出版、教育を監督しているのです。手足となって動く部分も持っていません。教育でも、おおまかな方針を日本側に出しては、結果を報告させています。それを承認したり、意見を出したりする以上のことはできません。言語の壁もあります。
「日本の軍国主義教育を排除し、民主主義を日本に根付かせる」ことがアメリカの目標です。しかし、細部になると、アメリカ内部にもいろいろな対立があります。大きく言うと自由民権派と国家主義派がいます。教育使節団の報告書が出されてからは、それを実現するために、C.I.E.は軍隊的スケジュールで動いています。米国の日本に対する占領下の教育行政は、軍政下にしては、かなり日本側の立場を尊重したものです。財閥解体や、農地解放はウムを言わさずやってしまったのと違い、意見を出しては、日本側と協議するという形をとっています。この理由は2つあります。
・外圧で押しつけたものは、結局根付かない。日本側の主体性を尊重しないと、米国が去った後は、元のもくあみになってしまう。そういう認識が米国側に、はっきりとあった。
・日本側は、当時最良の知識人達が教育行政の中枢にいた。彼らは、米国の先手を打って文部省の改革をやり、文部官僚を押さえ込んでいた。文部省は、存続すらが危うい”まな板に乗ったコイ”の状態であり、
「有能な事務局」の立場に徹している。米国の教育専門家たちと、日本の教育行政の中枢の人たちは、理想においておおむね一致でき、いちおうの協力体制をとることができた。
(すみません。長くなるので、また、続きにします。日本側の体制はどうだったのか、米国教育使節団の果たした役割はなんだったのかなど、また触れます。)
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