〈教育の多様性〉の会
  〈教育の多様性〉の会・メーリングリストより
■索引  ■前へ  ■次へ 
  Re: 戦後日本 私学の自由が失われた日
古山明男さん

Date : 2002.6.19
Number : 003

ML ID : [diversity:0092]
■Mailing List
「教育の多様性の会」は、市民が教育を創る自由と選ぶ自由を目指しています。「教育の多様性の会」のメーリングリストはこちら。
■Alliance for Childhood
子どもが、子どもにふさわしい生活や遊び、学びの環境を保障される社会づくりと取り組む「子ども時代のためのアライアンス」はこちら。
 
小貫さん wrote:
Subject: [diversity:0090] Re: 戦後日本 私学の自由が失われた日
今、改めて、半世紀前の日本に国際協力できているつもりでこの国の教育問題に取り組んでみるといいと思いました。そのときと同じようにいろいろな思惑のある人たち、組織があるわけですが、そのときするべきだったように様々な作戦を練ってひとつひとつクリアーしていくべきでしょう。

いいですねえ。とりあえず、1946〜47年頃の情勢を報告していきます。
小貫さん wrote:
当時それができなかったのは、ボウルズという人の使節団が来た時期、滞在した時間に問題があったのではないでしょうか。彼はいつ、何ヶ月間ぐらい日本に滞在したのでしょうか。5年はかけるべき仕事だったでしょうね。

5年はかけるべき仕事です。しかし、時代はそれを許さなかったでしょう。日本も米国も、教育が国家の進路にとって重要であることをよく認識していたので、空白状態に耐えられませんでした。とにかく、形作りを急いでいました。
戦後日本の教育改革は、”拙速”だったと、私は思います。日本側も、アメリカ側もそうでした。しかし、もう1年かける余地はありました。みんな、そのつもりだったのに、アクシデント的に、スタートしていったのです。もう1年かけて論議を深めていたら、かなり良いものができたと思います。
特に、教育委員会の制度を煮詰めるひまがなくて、積み残しのまま見切り発車したので、教育委員会なしでもやれる体制が、先にできてしまいました。それが、その後、教育委員会が形骸化し、文部省院政体制ができることにつながりました。
しかし、戦後日本の教育制度は、拙速ながら、その時点での時代の要請にはかなりよく応えたものです。単に政治制度を変革したり、軍部や財閥を解体しただけではできない社会変革を起こしました。既成階級と男女差を打破し、民衆のエネルギーが社会形成に流れ込むことを可能にしました。それ以前に比べれば、画期的なものです。あの時点で、今の状況まで見通すのを求めるのは無理だと思います。その後、見直しをしていれば、せめて70年頃に見直しをしていれば、それなりの役割を果たした制度だと思います。
使節団の滞在は、わずか一ヶ月です。その間、まことに精力的に活動し、厖大な報告書を作っていきました。どうして、これが一ヶ月で可能だったのか信じられないほどです。最後は、全員不眠不休で働き、報告書提出とともにホテルでぶっ倒れています。
使節団のメンバーの多くは、現職の大学教授や、教育現場の人たちです。著名な人、実績のある人をたくさん集めようとしました。そのため、長期間、国を留守にすることはできない人たちでした。
ボウルズをそのまま、日本の教育改革担当の参謀として日本に残せばよかったのに、と思います。日本教育改革の青写真を引く仕事をしていた人ですから。
なぜ、そうならなかったかは、すでに、知りようもありません。とにかく、青写真を作った人間は去り、あとは、在日の軍政スタッフ達が、軍隊的にそれを実現しようとします。

 
■索引  ■前へ  ■次へ