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荒井英治郎さん
Date : 2003.04.21
Number : 022
ML ID :
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幕末の有名塾、豊後の「咸宜園」と大坂の「適塾」は、厳格な「試業」を行ったことでも知られている。試業、つまりテストである。
「咸宜園」では、一ヶ月に九回もの試験を実施し、月に一度、全員の成績を張り出して発表する。それを「月旦評」と呼んだ。これは、試験の成績そのものであり、まさに塾生の品定めである。入塾者は、門閥・学歴・年齢を「三奪」されて無級の塾生となり、以後は月旦評に従って無級から最高九級までの席次が決められる。各級は上下に分けられるので、20階段を登っていくことになる。無級が下等生、一級下から四級上までが中等生、五級下から九級上までが上等生である。講義室の席も上等生から順順に窓際の明るいところを与えられ、下等生は薄暗い階段の下などに縮こまらなければならない、それが嫌なら必死にがんばって進級するしかないのである。資質にもよるのだが、競争が激しいからその進級もなかなか難しかった。
緒方洪庵の「適塾」も「咸宜園」同様の厳しい試験があり、秀才たちの激烈な競争が繰り広げられていた。福沢諭吉の自伝に、シラミがわく乱雑な寮生活と凄まじい適塾の勉強ぶりが回顧されている。
それに比べれば松下村塾の塾生たちはおとなしく、門下生の回顧談にも適塾のそれに似た話はほとんど出てこない。松陰は、村塾の建物の中で寝起きすることが多く、執筆もそこでしたというし、寄宿生も数人程度である。静かな松下村塾の空気は、禁欲的な松陰の人柄にもよるのだろう。
学習の効果判定は、指導者にとって必要なことであると同時に、競争心をかきたて学習意欲を高めるという二重の意味を持つ。「適塾」も「咸宜園」もそれを最大限に活用し、成果をあげたのである。塾というよりも二百数十人収容の学校の形態を持つ「咸宜園」や、医師の養成とオランダ語を習得させる特定の目的で開かれている「適塾」などとはまったく性格を異にする松下村塾で、画一的な試験を実施し成績を評価することは不可能だった。
松下村塾も一応の評価基準が設けられてはいた。学習態度の評定を三段階、さらに6つに分けて、これを『三等六科』とし、上等とは「進徳・専心」、中等は「励精・修業」、下等が「怠惰・放縦」とした。評価の基準を知識の量におかず、学問に向かう姿勢に絞っていることを表している。方法はそれしかなかったと言えるが、効果測定としては漠然としたもので、しかも塾生をこれに当てはめて評価した事実はない。松下村塾には、テストの成績を争って人の上に立とうとする競争原理はなかったのである。
試験の成績を争う激烈な競争は、互いの足を引っ張り合う心理が働き、冷えた人間関係を生じさせたりもする。咸宜園の淡窓はそれを心配して、塾生を時々は野外に連れ出し、勉学に疲れた心を癒しながら心を通わせる開放的な学びの機会も作った。
しかし、松下村塾では「相労役」によって、日常的に塾生同士が睦みあう空気があふれていたのである。
また、松陰は、『駒井生に贈る』『山田生に示す』など、書簡とは違う、また送序とは別の塾生個人にあてた文章をおよそ40通遺している。これがいわば松下村塾の「通信簿」のようなものだった。ほかに松陰が塾生にあてた手紙は約200通にのぼっている。塾生の一人一人と相対しながら個性を育て、立志を説き、「千秋の人」となる未来への励ましを与えて、短い歳月での歴史的役割を果たしたのだった。
また、松陰は、世界地理書をもっていたから、塾生たちに縦覧させ、また自分が行脚した全国各地の地理的・世界適な情況を語るについては、「飛耳長目」の情報教育とも関連している。「飛耳長目(ひじきようもく)」とは、「耳を飛ばし目を長くして、できるだけ多くの情報を入手し、将来への見通し、行動計画を立てなければならない」といったものである。時勢の動くを把握し、行動を決定するために必要な情報収集は切実な課題だった。
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