〈教育の多様性〉の会
  松下村塾 教育の原点を問う
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  4.松下村塾 (8)学科
荒井英治郎さん

Date : 2003.04.21
Number : 020

ML ID :
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松下村塾では何を教えたのだろうか。
松陰は、大要次のように言っていた。

「年少の諸君、山鹿素行は『閑なるときは即ち今日の行事を顧みよ』と教えられた。顧みるとは過ぎたことを回視することである。それには行動の記録を作り、読み返すのがよい。今から講義を始めるが、各々一冊の帳面を作り日々の日記を書き込むため、講義の時には必ず持ってくること。講義が終了したときは、その表紙に『孝経』の二語を書き、自分の姓名・花押の下に鮮血をおしておこうではないか。以後、日々これを読み返すことによって『観るべし』という山鹿素行の教えにかなるのである。」

安政4年の松陰の講義は、1月3日から始まり、玉木彦介ら5人が『孟子』を聴いた。このころから、午前・午後・夜間と三部にわかれて、講義は本格的に行われ始めた。不定期に聴講するものも含め、当時、松陰のところには1日12、13人がやってきた。
富永有隣が賓師として村塾に現れてから、学習活動は充実し、年少の塾生も訓点のない漢文を読むものが続出した。白文を読まなければいけないというのは、かねてからの松陰の持論だった。
『資治通艦』を日課として読むものもいれば、諸家の詩文集を読むものもいる。また『古事記伝』を読み、『日本外史』を読む者とさまざまで、文字通り「複式学級」であった。
決まった日課はなく、一対一の会読もあれば、数人から十人前後の者がまとまって講義を受けることもあるが、全員に呼びかけるときは『諸生に示す』や『諸友に告ぐ』といった文章を壁に貼り出した。
松陰の講義は大別して「兵科」と「文科」に分類される。兵学は、明倫館兵学教授だった松陰の得意とするものだが、山鹿流は山鹿素行によるきわめて精神性の強い軍学である。素行は武士の道義的、日常的な心得としての士道を説き、儒学と兵学を統一した人だった。松陰の兵学講義にも色濃くそれが反映しているが、明倫館では、兵学だけではなく、文科の講義も行っており、嘉永2年には『大学』や『孟子』を講じ、翌年には『中庸』を講じている。「兵を学ぶ者は経書を治めざるべからず」とも言った。
もちろん実践に関わる教科も軽視したわけではない。杉家での講義では安政3年8月から10月まで『武教全書』をやっているが、安政4年には中谷正亮らとともに『孫子』を会読しており、これはその後『孫子評註』としてまとめた。
また、松下村塾では塾生に「武芸」を課した。剣術は杉家の庭でやったが、野外に塾生たちを連れ出し、近くを流れる松本川で水練を実施し、河原では西洋銃陣の稽古もした。
松下村塾における「文科」の講義は、かなり錯綜している。各グループ毎にあれこれを選んだらしく、儒学・国学から和漢の史書をまじえた。教科書として使われたらしい書名を見てもそれがわかる。
『講孟余話』は松陰の名著として知られている、これは野山獄中にひきつづく杉家での講義で終わっていたが、『孟子』は松陰の生涯をつらぬく思想の中心を流れており、塾生にも強い影響を与えた。
また、『日本外史』『陰徳太平記』『春秋左・`』『資治通艦』などを講じたり、その他村塾の歴史の教科書として使われたのは、『古事記』『古事記伝』『六国史』『日本政記』『大日本史』『中朝事実』などであり、漢籍では前に挙げたもののほか、『十八史略』『元明史略』『清三朝実録』、また松陰は平戸旅行のとき読んだ『西洋列国史略』『和蘭陀紀略』を始め西洋史に関する書籍は、かなり詳しく抄録されているので、塾生との会話には当然それらに触れることがあったに違いない。松陰は、すでにフランス革命の概略をつかんでいたのである。

松陰は塾生を諭してこういったという。

「およそ学問は1つに的を絞って精通することが大事で、雑駁に渉るのはいけない。宋の司馬光の『資治通艦』、本居宣長の『古事記伝』にような努力を1つに掲げている。彼らは他の書を読むにしても、その目的に添っているのであり、他の著述があってもすべては余力から出ている。だから、その説明は確かで、しかも卓越するのである。」

不規則に、雑然とした講義を広げているように見えても、松陰は塾生たちがそれぞれに専念すべき目標をつかむように学習を指導した。それが松下村塾のような複式学級から生まれた方法論でもあったのだろう。
また、「数学」も松下村塾の主要な科目の1つで、壁には松陰が作成した『九数(九々)乗除図』が貼ってあった。また、「作文」の学習もあったようである。

品川弥二郎は次のように語っている。
「松下村塾では、地理・歴史・算術を主とし、塾生にいつもやかましく言はれたり。算術はこの頃武家の風習として、一般に士たる者はかくの如きことは心得るに及ばずとていやしみ足るものなりしに、先生は大切なることとせられ書生にも九々を教えられたり。先生はこの算術については士農工商の訳なく、世間のこと算盤珠をはづれたるものはなしと、常に戒められたり」(『日本及日本人』第495号)

 
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