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荒井英治郎さん
Date : 2003.04.21
Number : 018
ML ID :
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塾生たちの「学費」はどうなっていたのだろうか。松下村塾では、入塾するとき手土産程度の「束脩」は受け取った。「束脩」とは、入門のしるしとして師に贈る礼物だが、もともと入塾の儀式を言ったものである。
月謝は不要だった。天保年間(1830年〜1844年)に入って間もなく風水害などが続き、米の不作で農民一揆が発生、藩は財政改革の急務に追われていた。きびしい年貢の取立てに農民は苦しみ、武士達も禄の支給は三分の一という窮迫にあえる情況は安政のことになっても変わらなかった。
幕末の私塾の月謝は、普通で年間一両二分、それと盆と暮れのつけとどけをふくめ倍近くになる。今で言えば、20万円前後くらい。適塾は比較的安く、それでも年間一両弱、カンギ園が0.五両だった。萩城下では、そうした有名塾ほどでないにしても、教師が塾の経営で生活している以上相当な謝礼を出さなければならない。松下村塾の塾生の多くは下層の家に生まれた人々だから、余分の学資を調達して私塾に通うなどは贅沢といってよく、学問のある父親が家庭で授ける家も多かった。月謝のいらない松下村塾はそれだけでもありがたい存在だったのちがいない。
月謝の代りに、寄宿生は米を持ってきて、調理は自分でした。月謝は不要だったが、寄宿生が消費する米については厳密に計算し松陰自身が記帳した。杉家に迷惑をかけまいとする配慮もあったの違いない。しかし、夜遅くまで勉強したり、講義が食事時に及ぶと、家に帰ろうとする塾生を引き止め、杉家の飯などを持ってきて食べさせた。
松下村塾は、完全に松陰の奉仕によって運営された。杉家からかなりの敬意費が注ぎ込まれたはずで、いずれにしても「学商」ではなかったのである。
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