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荒井英治郎さん
Date : 2003.04.21
Number : 014
ML ID :
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江戸末期の有名私塾はいくつかをあげることができるが、塾の規模と知名度において抜群のものが二つある。大坂の適々塾(適塾)と豊後日田の咸宜園である、緒方洪庵の適塾では橋本佐内・福沢諭吉・大村益次郎といった著名人が机を並べ、広瀬淡窓の咸宜園でも大隈言道や長三洲が学び、高野長英・大村益次郎らが学籍簿に名を遺した。これらは全国各地から秀才が集まった名門塾である。適塾は三十年間、咸宜園は六十年間にそれぞれ三千人という人々を教え、その中からひとにぎりの英才を世に送り出したといえる。
吉田松蔭の松下村塾は、教育期間わずか一年である。あらたまった塾生名簿はないので正確な数はつかめないが、百人を上回ることはなく、ごく小範囲の人々を対象とした私塾であり、例外として広島からの一人をのぞいて、あとは萩城下とそれに隣接する松本村の若者達だけが集まった。その半数は貧しい軽率の家の子で、彼らは生活に負われながら総長あるいは深夜の暇をみては松蔭が待つ塾舎に通いつめた。藩校明倫館に在籍しながら怠学の気配を見せる士分もいれば、町の不良少年も混じっている。月謝は無料という風変わりな塾だったし、学力はまちまちで三々五々といった少人数に分かれての受講であり、一貫したカリキュラムによる講座があったとも思えない。つまり、松下村塾は知識の量を競う学塾ではなかったのである。適塾や咸宜園などとは比べるべくもない。
松下村塾は、有名塾に秀才が集まったというものではなかった。長州という辺境に伏流する地下水を汲み上げることから始まった土着の教室である。開塾にあたって、松蔭は、「天下を奮発震動」させる人材が松下村塾から輩出することを予言していた。そして維新史を旋回させた高杉晋作・久坂玄端・伊藤博文・山県有朋・前原一誠・品川弥ニ郎をはじめとするおびただしい人材を育て、自信に満ちたその予言を的中させたのである。
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