〈教育の多様性〉の会
  松下村塾 教育の原点を問う
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  4.松下村塾 (1)松下村塾の概要
荒井英治郎さん

Date : 2003.04.21
Number : 013

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江戸時代、ある程度の町であれば、主たる教育の場として私塾というものが何処にでもあったが、萩の松下村塾もそんな私塾の1つであった。
松下村塾は天保13年(1842年)松蔭の叔父の玉木文之進によって始められ、のちにそれが叔父の久保五郎左衛門に引きつがれて、松蔭が野山獄を赦され、杉家にいるようになったことから、彼が塾の中心となって教え始めるのである。そうして安政5年(1858年)には、藩主の許可によって、松蔭が塾を主宰できるようになった。こうしてわずか1年あまりにすぎなかったが、松蔭がこの塾を率いたのである。しかし、この萩の松下村塾を幕末のもっとも有名な私塾とするには、それで十分だったのである。
塾生の数はいつも限られていたが、徐々にその人数は増えていった。日本の小さな家では手狭となるため、塾は拡張しなければならなくなる。塾の増築が始まると、先生も、生徒も、そのために力を合わせて働いた。しかし、それでも間取りの貧弱なことに変わりはなかった。教場にあてがはれたのは、畳も障子もなき、「八畳間」だったのである。荒むしろが敷かれ、寒さよけに木が囲ってあった。
塾生は昼でも夜でもやってきたという。松陰は、個別に教えたり、少人数ごとに教えて、疲れを見せない。この時期の松蔭は、睡眠をとるといったもわずかばかりであった。机に伏して眠ったのである。夜でも塾生たちは師の眠りを妨げてよかった。そんな時はすぐにもまた本を手にして、説明し、教えはじめる師であったのである。
講義の時の松蔭は、頭をまっすぐにして端座し、武士の脇差をひざの上に置いて両手でその両端をしっかりと押さえていた。声は、情熱を抑えて低く、優しくくぐもった感じであった。天皇への忠節について語るときは、声を震わせ、涙に咽ばないということは無かった。そのような師に、塾生たちは心から心服し、敬愛の念を抱いたのである。師が温厚で、慈愛が深かったからである。激しく罵るとか、不機嫌に叱責するとかいういことは、松蔭からは程遠いことであった。
資料の伝えるところによれば、「親交」と「温かいこころ」が、松蔭の教育における際だった特徴だったようである。塾生との交流は、まったく人間味のあふれる温かなものであった。中でも感動を覚えるのは、通常の形式を遥かに越えた松蔭の強い「謙虚さ」である。手紙には、自らの学問を、全く不十分で不完全と考えていたことが、何度も表明されている。このことと、松蔭の持続的な「向学心」とは、無関係ではない。千変万化する境遇のなかにあって松蔭は、つねに研究を進めた。旅にあっては二冊の日記をつけるのが週間であった。一冊には1日の出来事を起こった順に書き留め、別の一冊のほうには特に重要な人との経験とか発見とかが記入されていた。しかも、本を読むときには、感じたことを書き留めておくということが、松蔭の習慣であった。

 
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