〈教育の多様性〉の会
  松下村塾 教育の原点を問う
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  3.教育者松蔭 (1)引出し喚起すること
荒井英治郎さん

Date : 2003.04.21
Number : 009

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松陰が明倫館の教授時代に提出した書物によると、登校は厳格に義務づけられているわけではなく、欠席する者も少なくなかったらしい。
「明倫館」は小学生・大学生・入舎生・居寮生・舎長と進級する。高杉晋作なども藩校での学習を怠けて、いつまでも入舎生で足踏みしている大禄の家の子弟で、いわば落ちこぼれに属する不登校の藩校生だった。
ペリー来航以来、中央の政情が激しく揺らぎはじめてから、明倫館では学生が過激に走るのを警戒し、時事を論ずることを監督しようとした。「松下村塾」ではそれが自由であり、むしろ松陰を中心に深夜まで激論を交わすことが珍しくなかった。松下村塾は、全国を行脚した松陰の旅行談を聞き、人生を語り、詩を詠みあう「青年宿」でもあった。松下村塾の塾生のほぼ半数が若い藩士であったことは、明倫館の字句の解釈のみを重視する学風から、村塾の自由闊達な空気に惹かれ、誘い合って集まってきたことを物語っている。高杉晋作のように親達から松下村塾に接近することを反対され、夜、家を抜け出してくる塾生もいたのだった。
また、松下村塾では、受験する者を集めて特別講義を開き、今日でいえば高度の予備校的な機能も果たしていたようである。つまりは学習意欲を高めるところが、松下村塾独特の雰囲気だったのである。なお、境遇、学力、年齢がさまざまな違う塾生数十人も集めて一度に講義をするということはあまりなかったらしい。早朝から来る者、午後あるいは夜になってあらわれる者など塾生がやってくる時刻もまちまちである。昼間の仕事を勤め上げ、また藩校での学習が終わってから村塾に足を運ぶ者もいる。「さみだれ式」に姿を見せる塾生を相手にするのだから、「マン・ツー・マン方式」をとらざるを得なかったともいえる。
松陰は、塾生の一人一人を観察し、その者の資質を見抜き、それに沿って指導したが、相手の境遇、性向などによって助言・方法はそれぞれに違っていた。本人の気付かない長所を発見し、それを褒め上げることによって自身を持たせ、さらに向上させるように導いたのである。まさに松陰はeducate(教育する)というよりも、educe(引き出す、喚起)したのである。
松陰の強烈な感化力の秘密は、生得身につけていた人間的な魅力であったに違いないが、あらゆる機会を捉えて親しく塾生に接近していく指導者としての努力と、するどい観察の視線、相手を選ばない誠実な姿勢にあるといえるだろう。

 
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