〈教育の多様性〉の会
  松下村塾 教育の原点を問う
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  1.松蔭の生涯 (2)松陰の死
荒井英治郎さん

Date : 2003.04.21
Number : 003

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松蔭がアメリカの船に乗って海外に渡航しようとする試みは、失敗する。
安政元年(1854年)の3月27日の夜半、同行の友の金子重之助と、下田沖アメリカの船の投錨しているところへと小舟を漕ぎ寄せることができた。しかし、艦長のペリーが、条約遵守の約束に反するということで、両者を再び陸へと追いやったのである。直ちに彼らは幕府に自首した。以来、松蔭の身に、自由の訪れる事は二度とない。
松蔭は、半年間、江戸の伝馬町の獄に投獄された後、さらに萩に監禁されることになって、毛利藩へと送り出された。萩において、さらに半年間の牢獄生活が続いた後、藩主の恩典によって、松蔭は杉家に謹慎の身になるのであるが、早くもその野山獄の獄中で、松蔭は同囚相手に教え始める。そして、萩家に謹慎の身となってからは、内密ながらも、松蔭本来の教育活動が初めて始まるのである。藩主は、そのような松蔭に、安政4年(1857年)、叔父文之進の私塾を継ぐことを許した。この私塾が、「松下村塾」である。松蔭は松下村塾において初めて誰憚ることなく教えることができるようになった。しかし、それといっても実際の期間は1年ほどである。なぜなら、安政5年(1858年)には幕府の命令で、再び彼の禁固は厳重なものとされたからである。塾生の軽率が、江戸で疑惑を巻き起こしたのである。また、将軍に対する梅田雲浜の謀反が露見して、それに加担しているのではないかという疑いが、松蔭にもかけられてきた。このため、安政6年春には、松蔭の身柄を江戸に移すようにとの命令が、毛利藩に発せられる。これは、松陰に対して死刑の宣告を意味するものであった。5月、彼は萩をたって、7月江戸に着く。法廷にあって、松蔭は、勿論あの陰謀に関与したとの非難については疑惑を晴らすことが出来た。しかし同時に彼は、志士たちの憤激の的となっていた間部詮勝(まなべあきかつ:日米条約締結の際に活躍した老中)の命を狙って画策したことがあるということも、素直に告白したのである。さらに幕府の政策の過ちを、長いリストにして幕府に提出もした。このようにして松蔭は死罪を宣告されることとなり、安政6年(1859年)10月27日(西暦では11月21日)、江戸において刑死するのである。

 
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