〈教育の多様性〉の会
  松下村塾 教育の原点を問う
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  4.松下村塾 (12)教育行政
荒井英治郎さん

Date : 2003.04.21
Number : 024

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 少なくとも、近代学校制度が成立する(日本の場合、1872年の「学制」)以前には、公教育制度が存在しなかったので、行政関与は全くなかったといえる。
 ただし、幕府は、昌平坂学問所、各藩はそれぞれの藩校については運営に関与したが、横とのつながりは全くなかった。ましてや、松下村塾などは、「私塾」である。関与というよりは、ほとんど無視の状態といっていいだろう。ただし、その私塾の師匠が体制にとって「危険分子」とみなされたときは、「思想犯」の取り締まりといった形の「介入」があったという可能性は否定できない。
 当時、今でいう学習指導要領などを始めとして教育内容などに関する規制はあったのであろうか。
 まず第一に、江戸時代の「学校」は、近代の学校とその性質が全く違っているということを理解しておかなければならない。手習塾(寺子屋)、私塾、藩校、昌平坂学問所など、教育機関は数多く存在したが、それぞれは、勝手に散在していたのであって、一つの国の教育機関としてまとまったものではなかったのである。よって、寺子屋→私塾→藩校などといった接続関係はなく、それぞれが自己完結する教育の場であったのである。
 また、そこに学ぶ側も、藩校等を除けば、100人の学習者がいれば100通りの学習要求があったわけであり、学習形態も当然100通りの学習があったのである。よって、一揆の温床になることなどがない限り、全く以って「お上」から無視されていたといってよいだろう。
 ただ、それぞれの教育機関の中でいわゆるカリキュラムみたいなものが存在したところも確かに存在する。特に幕府直轄の昌平坂学問所や各藩の藩校には、各種規程があったが、それは、その教育機関や幕府・各藩内のみで通用するものであり、全国的に通用するものは一切なかったというのが実情である。
 こうした封建的体制を突き崩すことが明治政府に課せられた最初の課題だった。それゆえ、明治政府は、版籍奉還・廃藩置県と中央集権化を進めていくのである。つまり、今で言う学校における様々な縛りは、国民国家成立以後のことだといえる。なお、日本の場合は、明治維新以後と考えられる。

 
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