〈教育の多様性〉の会
  小貫大輔 vs 古山明男 教育の多様性対談
■索引  ■前へ  ■次へ 
  「思いやり」と判断
古山・小貫さん

Date : 2002.12.19
Number : 011

ML ID :
■Mailing List
「教育の多様性の会」は、市民が教育を創る自由と選ぶ自由を目指しています。「教育の多様性の会」のメーリングリストはこちら。
■Alliance for Childhood
子どもが、子どもにふさわしい生活や遊び、学びの環境を保障される社会づくりと取り組む「子ども時代のためのアライアンス」はこちら。
 
古山: いろいろ見ていると、個人で生きている人がずいぶん増えていますね。独立自営、何か事業をやっている人、コンピュータをやってるとか、絵を書いているとか、そういう人たちはやっぱり判断します。判断しないと生きられないから。そういう人たちと共同して何かやる時はラクなんですよね。これは自分でやれるかやれないか、パパっと判断していくし。そういう独立してやる人のほうがいろいろ柔軟にやってくれる。だから、一応、今の体制の中でも、けっこう人が育っているなと思います。

小貫: それで、昨日から頭の中にこびりついているのが、判断と解釈ということばで、判断してくれる人というのはすごく気が楽ですよ。いいからやろうとかね、そんなの馬鹿らしいからやめなさいとかいうふうに……。こっちもいろんなことを無責任に、クリエイティブに、思いつくままに1回投げて反応を見ることができるわけですよね。
 ぼくが日本に来て一番苦手なのは、それをできない面が多いわけ。解釈されちゃうんですよ。この人は悪気がないだろうとか、こんなことを言ってるけど、本心はこうではないだろうかということまで含めて、「解釈」されちゃうから、自分の言葉を全部そのまま拒絶もされない。けれど、ある意味では、勝手に解釈されてもいるわけで、困ってしまうんですよね。
 「解釈」というのは、日本語、和語で言うと「思いやり」とか「気遣い」とかいうことでもある。「思いやり」という言葉は、日本人の喜びと苦しみをよく表わしたすごい言葉だと思うんですよ。日本人の能力でありながら、また同時に日本人に業のような苦しみをもたらしていると思います。

古山: 非常にいいものでもあるんですよね。「これのおかげです」っとありがたい思いやりもたくさんありますよね。
 でも、初めての集団に入っていくとき、読み間違いをやったときに大変なことになるんですよね。これは招いてくれてるんだなと思って行くと、妙な顔つきに出会って、そのうちますます相手の顔つきがおかしくなって、やっと気がついたときには相当邪魔者扱いされていた、あの恐怖というのは相当なものですよ。
 不登校になった人たちののかなりの部分、この暗黙のツマはじきにあった人たちですよ。

小貫: 「思いやり」というのは、外国に行った時すごく役に立つんですよ。外国の人は持ってなくて、自分だけが持っている、一種の超能力なんですね。他の国の人にはできないんですよ。自分だけにできる。すごい力があるんですよ、これが。
 だから、外国に行った時に使えばいいんだよね。日本にいるときは少し控える。なんていうかな、みんなが思いやっている世界というのはすごい世界でね。錯綜してるんですよ、いろんな人の思いやりが。日本では、例えば、ちょっとこうやってやるでしょ(腰をうかして何かを探すそぶりをする)、そうすると誰かが「あっ」といってね、お茶を出すとか、何かしてくれるわけです。ぼくは別にそのとき別にお茶が欲しかったというわけではないんだけど、お茶が出てきたりするんですよ。本当はジュースがいいと思っていたかもしれないんですけど。お茶が出てきたら、さすがにお茶を飲むしかないわけです。

古山: それでね、極端になると「これ入れてください」って茶碗を差し出したら、それだけで気がつかなかった人の落ち度になったりする。言われる前に、さっと入れなきゃならなかったんです。だからこれくださいということができなくてね……。
 逆に、欲しくもないのに、どんどん注がれることもあるしね。

小貫: すべてその良さと悪さというか、喜びと苦しみの使い分けというかね、良さを活用しながら新しいものを身につけていかなきゃいけない時代です。さっきから古山さんがおっしゃってるのは、おそらく江戸時代から始まったことで、日本人の判断力を養うある種のプロセスがストップして長かったので、それがまさに学校という場所で顕著に続いているというお話でしたね。

 
■索引  ■前へ  ■次へ