● 本の虫スクゥエアWeb版書評

『小児科診察室 ― シュタイナー教育・医学からの子育て読本』

  • ミヒャエラ・グレックラー,ヴォルフガング・ゲーベル共著
  • 入間カイ訳
  • 水声社刊 4,200円

庶民の下に降りてきたアントロポゾフィー

入間カイ(本書翻訳者)

この本の翻訳に着手したのが、約20年前。 ドイツで初版が出て、評判になった頃でした。 以来、シュタイナー関係の本としては初めて、一般の書店で売り上げを伸ばし、ごく普通の父母の子育てガイドとして広く読まれるようになりました。 著者のひとり、ミヒャエラ・グレックラーさん(小児科医)は、今ではゲーテアヌム医学部門の代表として、休む間もなく世界中を講演してまわり、アントロポゾフィー(人智学)医師の養成をはじめ、アントロポゾフィー医学が社会に根づくために精力的な活動を展開している、いわば重鎮的な存在です。 が、僕が知り合った当時は、彼女はゲーテアヌムに呼ばれる直前で、市民や女性の視点をもった新進気鋭のアントロポゾーフ(人智学徒)として注目されていました。 彼女の講演を聞いたある母親は、本書の共著者のゲーベルさん(やはり小児科医)に、「あなたたちは、ようやく私たち一般の庶民のところまで降りてきたのね」と感想を漏らしたそうです。

僕自身にとっても、グレックラーさんとの出会いはとても大切でした。 医学部門の代表に就任して間もなく、彼女はこんな話をしてくれました。 若い頃の彼女は、自分がこれはと思う人のところへ出かけて行っては、「あなたはアントロポゾフィーをどう思いますか?」とたずねたそうです。 たとえばユクスキュルという有名な生物学者は、彼女に対して、「もし自分がアントロポゾフィーを認めてしまったら、これまで自分がやってきた学問がすべて根底から覆ってしまう」と答えたといいます。

また、ある有名な評論家がアントロポゾフィーについてこんな批評を書きました。 「私たちは20世紀を通じてサルトルやポパーをはじめ、さまざまな認識論を通過し、いま新しい地平を切り拓こうとしている。 それなのに、アントロポゾーフたちは未だに80年以上も前に書かれたシュタイナーの『自由の哲学』を後生大事に祭り上げている。 だから、彼らとは議論できないのだ」。 彼女は、早速この評論家に手紙を書いて、「あなたの主張には正当なところもあるけれど、アントロポゾーフとは議論できないというところだけは認められない。どうぞゲーテアヌムに招待しますので、私と議論しにいらしてください」と伝えました。 この評論家は実際にゲーテアヌムにやってきて、彼女と話をしたのですが、そのなかで自分の妻が熱心に読んでいる『小児科診察室』の著者が彼女であることを知って驚いたということです。 その後も、たとえば東西ドイツ統一後の法改正の際に、女性の中絶を選択する権利を公然と主張して物議をかもすなど、つねに時代のさまざまな問題に対して発言を続けています。 「子ども時代のためのアライアンス」(子ども時代の権利)の発起人のひとりでもあります。

そのようにして、どこまでもアントロポゾフィーにこだわりながらも、社会的な視点をもち続け、自分と異なる立場の人たちと向き合おうとする彼女の熱意に、当時の僕もアントロポゾフィーの本来のあり方を予感したものです。

そんな彼女がベテランの小児科医ゲーベルさんと共に著したこの本は、「教育と医学の両面から、子どもの発達を支える」というユニークな観点に貫かれています。 第1部はいわば「医学編」で、痛みや発熱、呼吸、消化、皮膚、アレルギー、感染症、また病気の意味や予防接種など、実際の病気や手当てにかかわることが書かれています。 第2部は「子育て編」で、赤ちゃんが生まれてから幼稚園にあがるくらいまでの、授乳や栄養、環境、赤ちゃんの発達をどう見るか、感覚をどう育成するかといったことが述べられています。 第3部は「予防医学としての教育」というテーマで、幼稚園から高校までの教育が、実際に子どもの体質や病気への傾向にどのような影響を及ぼすかということが詳しく述べられています。 また性教育や家族のあり方、父親と母親の役割、麻薬、テレビ、放射能といった社会的・政治的な「環境問題」にも踏み込んで言及しています。

この本の日本語版の出版は多くの人々の協力によって可能になりました。 20年前から、本書の原稿を抱えて読書会をしたり、小児科医の方とドイツの著者を訪ねたり、できるだけ日本の読者にわかりやすい形の翻訳にするための努力を続けてきました。 最終的に、2004年5月からゲーテアヌム医学部門主催の「アントロポゾフィー医師養成講座」(IPMT)が長野で始まったことが、大きな弾みになりました。 そこでアントロポゾフィー医学に関心をもつ多くの医療従事者の方々と知り合うことができ、そのなかで石川眞樹夫医師(新逗子クリニック)がまとめ役になってくださって、『小児科診察室』のための監修チームが作られました。 その方々の尽力によって、ようやくこの日本語版は完成したのです。 この間に、ドイツでは今年8月に第16版が出版されました。 日本語版では昨年大幅に改訂された第15版を底本に、最新の第16版の内容も必要と思われる箇所は取り入れています。 この本は、値段は4000円+税とやや高価ですが、そこに投入された人々の努力を考えれば、決して高くはないと思います。 何よりも、その内容は、アントロポゾフィー医学や人間学への「生活に根ざした」入門書として画期的なものだと思っています。 版元の水声社の方も、10冊以上からのご注文には割引も検討しますと言ってくださっているので、幼稚園や勉強会、子育てサークルなどでまとめてご購入いただくこともご検討いただければ幸いです(水声社tel.03-3818-6040)。 なお、本書の監修チームは今後も「《小児科診察室》研究会」として活動をつづけることになったので、この日本語版もドイツと同じように、日本の現実に合わせてさらに発展していくことを願っています。

入間カイ
本著の翻訳者で英独通訳翻訳業を生業とする。 「入間カイのアントロポゾフィー研究所」主宰。 主な著書に『三月うさぎのティータイム』(南方新社)、訳書に小冊子シリーズ『子ども時代の権利』など多数。

初出:オープンフォーラムNo.57
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