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月刊オープンフォーラム編集雑記 アーカイブ

2007年08月09日

裁判員制度と社会の三分節化

オープンフォーラムNo.64の「ニュースフラッシュ」のコーナーで「裁判員制度はルドルフ・シュタイナーの社会有機体三分節化に逆行」と書いたところ、ひとりの読者が記事に反応してくださった。

編集者としてもあの記事の説明では不十分だと理解しており、いずれきちんと特集を組むつもりでいる。ただ、その企画も少し先のことになりそうなので、ここで簡単に説明をしておきたい。

ご存じの通り、ルドルフ・シュタイナーの社会論に関する基本的な文献は以下の3冊が邦訳となって刊行されている。

  • 『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』(イザラ書房)
  • 『シュタイナー経済学講義』(筑摩書房)
  • 『社会の未来』(イザラ書房)

裁判員制度に関係する内容は、特にこのうちの『社会問題の核心』に述べられている(130~131頁)。かいつまんで書くと、ルドルフ・シュタイナーはそこで、裁判など司法に関わる事柄のすべては法の領域から切り離し、精神生活の領域に委ねられなければならないと語っている。裁判における正しい判断は、無作為に抽選された一般人によっては決して実現せず、裁かれる側の個々の具体的状況を把握できる感受性と理解力をもっていることが条件となる。そのためには、文化の領域から意識的に裁判官を選出するような社会システムが必要だというのだ。

日本での裁判員制度導入の動きの背景にはいろいろな要素があるようだが(それはまた追って報告したい)、司法の本質と立法の本質をはき違えた思考方法がその根底にあるように思う。立法においては、成人した人なら誰もが有する判断力に基づいて法律が形成される。そこでは「一般」の原理が働くのだが、一方、司法の領域においては「個別」の原理が適用される必要があるということなのだ。事柄に即して考えれば、ルドルフ・シュタイナーの言い分に深く頷くことができるだろう。

この雑文が裁判員制度の意味を再検討することに少しでも役立てば嬉しく思う。

なお、この記事を掲載したオープンフォーラムNo.64は、2007年10月のフリー公開までは購読者にのみ公開している。本誌をお読みいただくことは、フォーラム・スリーの活動を支えていただくことにもつながる。購読をされていない方は、ぜひ購読手続きをしてほしい。

2007年08月13日

韓国からのお客様

オープンフォーラム誌上でたびたびお伝えしてきた、韓国の緑の森の学校から1年生のクラス担任・金弘昌さん、同校の日本語教師の新妻由江さんが2007年8月19日にフォーラム・スリーを訪問してくださる。

私は2年ほど前に、あるメーリングリストで新妻由江さんと知りあった。ちょうどNPO法人横浜シュタイナー学園で開かれた永田佳之さん(当時、国立教育政策研究所研究員)による、世界のオルタナティブ学校の動きのレクチャーを聴き、自分のなかで教育制度面での韓国の先進性に関心が高まっていたので、韓国のヴァルドルフ学校で日本の女性が教師をしているという話に興奮してしまった。

さっそく熱いメールを送ると、最初は慎重な返信をいただいたが、やりとりを重ねるに連れ、やがてこちらを信頼してくださり、オープンフォーラムに記事まで送って下さるようになった。そして、今年の2月にはフォーラム・スリーがご縁をとりもって、緑の森の学校の教員研修で高橋巖さんが講師を務めるという出来事も実現した。学校側も高橋巖さんもこの出来事をたいへん喜んで下さったようだ。

そんな新妻さんが、夏に来日(帰国?)されるとのこと。「せっかくだから、日本のヴァルドルフ教員の集いに参加されては?」と誘いをかけた。2005年に台湾で開かれたアジア・ヴァルドルフ教員会議に刺激され、日本で学校を超えたヴァルドルフ教員の集いが毎年開かれているのだ。すると、オープンフォーラム誌に日韓の交流の呼びかけ文を寄せてくださった金弘昌さんが、自分も参加したいと希望された。

韓国の先生の積極性に少々たじろいだが(笑)、面白いので教員の集いの呼びかけ人・秦理絵子さんに仲介したところ、話はトントン拍子に進み、今回の来日に。

写真中央が高橋巖さん、その左が金さん、右端の女性が新妻さん

金さんは、韓国のヴァルドルフ幼稚園関係にもつながりが深いらしく、幼児教育関係者とも交流を希望し、19日には日本シュタイナー幼児教育協会の理事のおひとりにも来ていただくことになった。またまた興味深い集いになりそうだ。

韓国という国は、日本とよく似たところがある。他のアジア諸国は、「私たちは欧米に学びに行くことなんかできないから、先生たち来てよー」というスタイルで、巡回教員養成が行われているのだが、韓国・日本は、欧米で学んだ人たちが自前のつながりのなかで自分たちの教育をつくっていくスタイル。韓国・日本の運動にはある種のプライドのようなものが、共通項として感じられる。

それはよい部分もあるのだろうが、台湾、タイ、シンガポール、マレーシア、ネパール、インドなどの地域が巡回教員養成の講師を介して共有しているゆるやかなネットワークから、韓国・日本ははずれてしまっているということは意識しておくべきだろう。

この溝が大きくなる前に、日本・韓国は、意識的にアジアのイニシアチブ(APIG)とのつながりをつくっていく必要を感じている。

関連の特集をオープンフォーラムNo.64で紹介している。読んでいただければ嬉しい。

2007年08月20日

カイ君のアントロポゾフィー研究所

私のブログ先輩である入間カイ君の「入間カイのシュタイナー探訪」というブログが、「入間カイのアントロポゾフィー研究所」にリニューアルした。

聞いたところによると、リニューアルの背景はなかなか込み入っているが、名称が「シュタイナー」から「アントロポゾフィー」に変わったという単純な受け取り方でも、そこからいろいろな刺激を受けることができる。

私は、アントロポゾフィー・人智学の運動に「シュタイナー」の名称を冠することに、いつも小さな抵抗を感じる。オープンフォーラムの誌面では、なるべく「シュタイナー学校」を「ヴァルドルフ学校」と表記しているし、「シュタイナー思想」という言葉を誌面で使ったことは、たぶん一度もないと思う(もちろん、団体名などの固有名詞はその命名者の意向を最大限に尊重しているわけだが)。

それは、ルドルフ・シュタイナーを尊重しないとか、ルドルフ・シュタイナーを超えたいというような、不遜な考えからではなく、むしろルドルフ・シュタイナーの遺志を尊重しようとすれば、必然的に導かれる選択ではないかと思っている。

ルドルフ・シュタイナーの講演録を読み込んでいくと、ある印象を抱くようになる。彼が語る言葉は、常にアントロポゾフィー・人智学という客観的な存在を体現する言葉であって、その意味で彼の言葉ではない。もちろん、ルドルフ・シュタイナーという人格を通してそれは表現されているのだが、その言葉のなかで彼はどこまでも無色透明になろうとする。

ルドルフ・シュタイナーが為した仕事は、本来、彼の恩師であるカール・ユリウス・シュレーアーが為すべきものであったと、ルドルフ・シュタイナーは彼の自伝で述べている。アントロポゾフィー・人智学という実態が地上において形をとるための仲介者は、ルドルフ・シュタイナーという人格に還元されるものではない、ということはたいへん重要な指摘だと思う。

彼の自伝を読むたびに、ルドルフ・シュタイナーが築いたものは、シュタイナー思想でもなく、シュタイナー学校でもなく、シュタイナー医学でもなく、シュタイナー農法でもなく、あなたの考え、あなたの教育、あなたの医学、あなたの農業だったのだ、という思いを新たにする。

その遺志を忘れないためにも、名称ひとつが大きな意味をもつのだと思う。

しかし、その選択は、やはり個々の判断に委ねられるべきだ。私の考えが誰かを縛ることを私は望まない。この文章を考えるための材料としていただければ嬉しく思う。

オープンフォーラムNo.60に関連記事があるので、興味があったら読んでください。)

2007年08月22日

ルドルフ、ルーディ、シュタイナー

名称の話題を引き続き書く。

イギリスのアントロポゾフィー運動のリーダーのひとり、アンドリュー・ウォルパート教授が来日中に、こんなことを口にした。

「日本では、多くの人がルドルフ・シュタイナーのことを『シュタイナー』と呼ぶが、私はそれを耳にするとあまりいい気持ちがしないんだ。山田太郎さんという人が、他人からラストネームで『ヤマダ、ヤマダ』と連呼されたら不快に思うだろう。だから私は、彼のことを『ルドルフ・シュタイナー』と、フルネームで呼んでほしいんだ」。

なるほど、言われてみればそのように感じられる。そう言えば、作家の故ミヒャエル・エンデは、ルドルフ・シュタイナーのことを「ルーディ」という愛称で呼んでいた。これはもちろんルドルフ・シュタイナーのファーストネームをもじったものだ。しかし、個人的な会話のなかならともかく、書き文字で「ルーディ」を連発するのもいやらしい感じがする。

かといって、文中で何度も「ルドルフ・シュタイナー」を繰り返すのもくどくどしいし、「ルドルフ」では通りが悪い。「シュタイナー博士」、あるいは「ドクター」という訳も見かけるが、権威を嫌う現代人にはかえって疎遠な印象を与えるように思う。

いまは窮余の策として、「R.シュタイナー」という逃げの一手を使っているが、どなたかもっとスマートな妙案があったらぜひ教えてほしい。

ところで、このことを前回の名称問題に引きつけて考えると、「シュタイナー学校」というのは「ヤマダ学校」というのと同じことになる。「アベ学校」、「ミヤザワ学校」、「サトウ学校」。やっぱりどこかヘンではないだろうか?

自由ヴァルドルフ学校の「自由」とは?

名称の問題はまだまだある。

「自由ヴァルドルフ学校(Freie Waldorfschule)」、「精神科学(霊学)自由大学(Freie Hochschule für Geisteswissenschaft)」等々についている「自由」という言葉が何を意味をしているのかについて、皆さんは熟考したことがあるだろうか。

キリスト者共同体の小林直生さんに指摘されて初めて私も気づいたのだが、私の場合、それを指摘された瞬間に「なーんだ」という思いがわき起こり、そのうちにじわじわと「やはりそうだったか!」という感動が押し寄せてきた。

もったいぶらずに明かすと、ここで用いられている「自由」は、いわば「私立」の意味で使われているのであって、ヴァルドルフ教育の内容に関する主義主張とは一切関係がないということなのだ。つまり、ここでの「自由」は、国家等から独立した自主教育機関であるということを謳っているに過ぎない。

私たちは「自由」という言葉に弱い。ついつい、思い入れたっぷりに「自由○○××」と掲げたくなるのであるが、ここでは「私立」とか「自主」と書いた方が本来の趣旨に近いということをしっかり意識しておきたい。なぜならこのことは、ルドルフ・シュタイナーの社会論に照らしても、非常に大きな意味があるからだ。

「精神活動」「法活動」「経済活動」の記事で少し触れたが、ルドルフ・シュタイナーの社会論では、社会における精神活動の領域の自立性が非常に重視されている。学校のような文化活動は、経済貢献に適した人材を求める経済界からの要求や、恭順的な人間を求める国家からの要求から、完全な自立を保つことがひとつの理想である。そのことが実現することによって、社会は、すでに存在している外的な要因に引きずられるのではなく、発展の要因を自らの内側に確立できるということなのだ。

2002年に小泉内閣の特区制度が火をつけ、藤野の学校法人シュタイナー学園の認可にひとつの結実をみた「教育の多様性の会」という動きがある。ヴァルドルフ学校というひとつの教育信条を超えて、あらゆるオルタナティブ学校の実現を目指す人たちが手を結んだこの活動の目的は、まさに日本において教育の自主独立の可能性を拓くことにある。

ヴァルドルフ学校が、そんな大きな社会の流れの一翼を担う活動として、意識して「自主」を謳っていくようになれば、ほんとうに素晴らしいことだと思う。

2007年09月12日

カキ、コキ、身辺雑記 vol.1

9月の声を聞いたとたんに忙しくなった。

テリーさんの集いをきっかけに社会問題イニシアティブがスタート、オルタナティブ教育を推進する会設立準備のミーティング、ヴァルドルフ学校運営者連絡会のとりまとめと報告書づくり、久しぶりに子ども時代のためのアライアンスの集いを開催し、子どもの権利条約が締結された11月20日にちなんだ「子ども時代週間」の企画が進行中。竹の子の会(親子の保育の場)の新学期が始まって子どもたちとの再会を喜んだのもつかの間、小学生クラスの準備がなかなか進まない(汗)。ホームページ制作の仕事も4本が並行して進行中の上、遅れているDr.ハウシュカのメールマガジンの発行も急がなくてはならないし、 ニュースレターの校正の仕事と講座の案内づくりも締め切り間近かだ。

そんなこんなで、ブログの更新もままならない日々を送っている。進行中のプロジェクトひとつひとつにお伝えしたい重要なエピソードが詰まっているし、新しい発見や社会論の解説の続きも書きたいのだが、しばらくはお預け状態が続くと思う。

学校運営連絡会でも何度も話題になっているのだが、私たちの活動に切実に求められているのは専従を置いた事務局機能だと思う。課題やアイディアは次々に生まれてくるのに、それを実務に移していくためのリソースが決定的に不足しているために、せっかくよい発想があってもそれを生かすことができないし、重要な機会に動けなかったりすることがあまりにも多いのだ。

各ヴァルドルフ学校が積極的に共通の事務局機能に意義を見出すことができ、共同で維持費を持ち合うことができれば、ヴァルドルフ教育の発展に大きな力になるだろう。8校のヴァルドルフ学校だけでは維持しきれないかもしれないが、日本シュタイナー幼児教育協会と協力するという可能性だってある。

じつはフォーラム・スリーの活動にも、アントロポゾフィー・人智学の活動の事務局機能のような存在として、運動のなかに機動性をもたらそうという意図がある。ニュースレターの発行にしても、さまざまなネットワークや企画のアレンジにしても、アントロポゾフィー・人智学運動の事務局的な役割を果たしていると思っている。

そんな機能がしっかり動いていくためにも、アシスタントやスタッフに有給で動いてもらえる状況をしっかりつくりたい。そのためには安定した財源確保が必要で、現在、物販や会場などの活用について、スタッフが一丸となって新しい企画を進めているところだ。次号のニュースレターにいろいろな案内を同封する予定なので、お楽しみに&ご協力を!

(そうそう、月刊オープンフォーラムの購読収入も大きな助けになるので、購読者拡大キャンペーンにも乗っていただければ、超嬉しい。)

2007年09月19日

アライアンス報告会と子ども時代週間2007


9月2日の夕べ、久々に子ども時代のためのアライアンスの集いが開かれた。7月9日~13日にブラジル・サンパウロで開かれた「子ども時代のためのアライアンス・代表者会議」に日本から参加した、広島の定者吉人さんの報告会を兼ねて開催した。

定者さんのブラジルの会議の印象は、アメリカ大陸のアライアンスの活動が非常に活発であること。ウテ・クレーマーさんのような力のある活動家がいることや、草の根運動が力をもっていることが大きいのだろう。そして、「出会うことの大切さ」の共有。広い大陸に散らばって活動している人たちは、この会議から「ひとりではない」という大きな勇気をもらって帰って行ったそうだ。

国連の「子どもの権利条約」の重要性が確認されたことも、同会議での大きなできごとだった。この「子どもの権利条約」は、ヴァルドルフ教育者から敬遠されることがある。思春期前の発達段階にある子どもには判断を強要しないことが健全な内的発達を促すというのがヴァルドルフ教育の基本的態度だ。それに対し「権利条約」では、子ども自身の権利の主体性を明確にする上で、子どもの発言権を積極的に認めていくと読むことができる条項がある(第12条、第13条)。「権利条約」にコミットする活動家のなかに、この部分を拡大解釈して、子どもの主体性をことさら強調する傾向があることが、ヴァルドルフ教育者が「権利条約」を敬遠することにつながるのだろう。

しかし、条約をきちんと読めば、「児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」(第12条)という条文も定められている。大切なのは、「子どもの権利条約」の全容をヴァルドルフ関係者もしっかりと理解し、その適切な運用について幅広い対話をはじめることではないだろうか。この条約の可能性を、子ども時代のためのアライアンスという場であらためて問い直していくことは大きなチャレンジだと思う。

報告会では、子どもの権利条約が締結された11月20日にちなみ、その前後に「子ども時代週間」を開催しようというアイディアが共有された。「子ども時代週間」の実行委員会に参加したい方は、下記に連絡してほしい。


秋元 tel.090-7839-0103
ciaokaori(アットマーク)msj.biglobe.ne.jp

2007年12月04日

白石玲子さんの体験授業

 更新できないまま、すっかり間があいてしまった。

 9月に入ってから体調不良が続き、BLOGに回せる余力がなくなってしまった。しかし、フォーラム・スリーの活動は着実に回っている。

 「子ども時代の日」として開催したオープンディが多くの参加を得て終了し、今週の水曜からは、いよいよ白石玲子さんのシュタイナー学校の体験授業が始まる。

 この講座のおもしろさはいろいろあると思うが、まず第一に、ヨーロッパで生まれたヴァルドルフ教育が日本人の教育者によってどのように料理されるか、というところが見どころのひとつ。できれば、ほかのオルタナティブ教育の実践者にも参加いただき、ディスカッションができれば素晴らしいと思う。

 また、公教育ではタブーとされる宗教的な要素が、いかに低学年の子どもたちにとって自然で身近かなものであるかが、この授業のなかで実感できると思う。これだけとっても、貴重な体験だろう。

 今回のシリーズは低学年の授業ということで、先生が口頭で何も説明せずに、生徒の模倣の力を通して展開していく授業のおもしろさも体験できるはず。きっと目から鱗の体験があると思う。

http://www.forum3.com/#class123

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