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ルドルフ・シュタイナーの社会有機体論 アーカイブ

2007年08月09日

社会論に導かれたきっかけなど

ルドルフ・シュタイナーの社会有機体論についてこつこつ研究してきた。

きっかけは、日本ルドルフ・シュタイナーハウス(現日本アントロポゾフィー協会)の会費制をめぐる議論だった。

当時、「社会問題の核心の会」という読書会で、ルドルフ・シュタイナーの『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』を読んでいた私は、ハウスのなかで語られる「経済の友愛」という言葉と、ルドルフ・シュタイナーが著書のなかで語る内容の間に大きな齟齬があることに気がついた。

若輩者の私は、自分自身の読み方が間違っているのか、ハウスのオーソリティーの理解が誤っているのか、確かめたいという一心で、オーソリティーたちに問いを投げ、機関誌に記事を書き、果ては協会の総会に「三層構造を生きる」というテーマを推してシンポジウムを開きもした。しかし、論点はなかなかかみ合わない。理由は、当時のオーソリティーたちにとって、三層構造がファッションでしかなかったことに尽きる、と思う。

当時(1990年台前半)は、アントロポゾフィーに関する文献もまだまだ少なく、活動の原動力の多くをオーソリティーに依存していた。勢い、オーソリティーたちはジェネラリストであることを求められ、アントロポゾフィーのあらゆる分野をひとりで紹介するという役割を引き受けなければならなかった。たとえ社会的分野へのセンスがなくても、三層構造をひととおり説明できなければならない。その状況が、ルドルフ・シュタイナーの社会論についてのあまりにも大きな過ちに、私たちを引き込んでいく。

問題は大きくふたつにしぼられる。ひとつは、ルドルフ・シュタイナーの社会論がマクロな社会についての論であるにもかかわらず、わずかな人たちのグループにもそれが適用できるとという思い込みであり、もうひとつは、経済という術語の誤った解釈だ。

これはゲーテアヌム理事ポール・マッカイとの話しあいで彼が指摘してくれたことだが、ルドルフ・シュタイナーが問題にする社会の三つの領域、精神生活、法生活、経済生活は、それぞれが対応する社会の最小単位を異にしている。精神生活はたったひとりの個人から関係してくるものだが、法生活はひとりでは始まらない。複数の人間関係のなかではじめて意味をもつ領域だ。そして、経済はより大きなスケールの社会でのみ意味をもつ。

もうひとつ重要なのは、ルドルフ・シュタイナーが使う「経済」という言葉の定義だ。ルドルフ・シュタイナーは、「経済」という言葉を、非常に厳密なかたちで用いている。それは、商品の生産と流通と消費に関わるプロセスのことであり、そこにはお金は含まれないということ。だから、商品を生み出さない共同体のなかには、経済領域はそもそも存在し得ないのであって、アントロポゾフィー協会や学校などの共同体運営に三分節社会論を持ちこむことには無理があるのだ。

『社会問題の核心』を素直に読めばすぐに分かることなのだが、一度広まってしまった先入観を払拭することはたやすいことではない。ヴァルドルフ学校や幼稚園のなかにまで広がった「経済の友愛」ドグマによって、多くの悲劇が生まれることになった。

しかし、ここでこのことを深追いすることはしない。すべての出来事には意味があるのだ。私自身にとっても、このことで経験した葛藤は、その後の社会論探求の礎ともなり、まったく畑違いの私にもルドルフ・シュタイナーの素晴らしい経済論に目を開かせてくれるきっかけをあたえてくれた。

そのことに感謝しつつ、これから私の学んだことを多くの方とシェアできればと思う。先人たちがそうであったように、私自身も誤解していることもあるだろう。お気づきの点があればご指摘いただければ幸いだ。ただし、すぐにレスをつけられないことが多いと思うので、その点はご容赦いただければと思う。

裁判員制度と社会の三分節化

オープンフォーラムNo.64の「ニュースフラッシュ」のコーナーで「裁判員制度はルドルフ・シュタイナーの社会有機体三分節化に逆行」と書いたところ、ひとりの読者が記事に反応してくださった。

編集者としてもあの記事の説明では不十分だと理解しており、いずれきちんと特集を組むつもりでいる。ただ、その企画も少し先のことになりそうなので、ここで簡単に説明をしておきたい。

ご存じの通り、ルドルフ・シュタイナーの社会論に関する基本的な文献は以下の3冊が邦訳となって刊行されている。

  • 『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』(イザラ書房)
  • 『シュタイナー経済学講義』(筑摩書房)
  • 『社会の未来』(イザラ書房)

裁判員制度に関係する内容は、特にこのうちの『社会問題の核心』に述べられている(130~131頁)。かいつまんで書くと、ルドルフ・シュタイナーはそこで、裁判など司法に関わる事柄のすべては法の領域から切り離し、精神生活の領域に委ねられなければならないと語っている。裁判における正しい判断は、無作為に抽選された一般人によっては決して実現せず、裁かれる側の個々の具体的状況を把握できる感受性と理解力をもっていることが条件となる。そのためには、文化の領域から意識的に裁判官を選出するような社会システムが必要だというのだ。

日本での裁判員制度導入の動きの背景にはいろいろな要素があるようだが(それはまた追って報告したい)、司法の本質と立法の本質をはき違えた思考方法がその根底にあるように思う。立法においては、成人した人なら誰もが有する判断力に基づいて法律が形成される。そこでは「一般」の原理が働くのだが、一方、司法の領域においては「個別」の原理が適用される必要があるということなのだ。事柄に即して考えれば、ルドルフ・シュタイナーの言い分に深く頷くことができるだろう。

この雑文が裁判員制度の意味を再検討することに少しでも役立てば嬉しく思う。

なお、この記事を掲載したオープンフォーラムNo.64は、2007年10月のフリー公開までは購読者にのみ公開している。本誌をお読みいただくことは、フォーラム・スリーの活動を支えていただくことにもつながる。購読をされていない方は、ぜひ購読手続きをしてほしい。

2007年08月10日

「一般性」「個別性」「相互性」

前の記事で、立法は「一般性」に関わり、司法は「個別性」関わると書いた。

このことは、じつはルドルフ・シュタイナーの著書を読んでも明確には書かれていない。これは私がルドルフ・シュタイナーの社会論と付き合っていくなかで行き着いたオリジナルなアイディアだが、この整理の仕方によってこの社会論への見通しが格段によくなると思っている。

ルドルフ・シュタイナーは、彼の社会論のなかで、社会のなかに以下の3つの領域を認めている。

  • 精神活動の領域
  • 法活動の領域
  • 経済活動の領域

それぞれの内容をそのままの言葉の印象から類推すると、ルドルフ・シュタイナーの社会論を正しく理解することがかえって難しくなる。彼が「精神」「法」「経済」という言葉で何を指し示しているか、ここで一度明確にしておきたい。その考察の出発点として、私たち自身、つまり社会における人間のあり方を見ていくと、ルドルフ・シュタイナー独特の観点に近づきやすくなると思う。

社会における私たちのあり方は、3つの相をもっている。

  • 一般性:ひとりひとりがみな、同じ人間であるということ。あなたもわたしも同じ人間であるという部分を共有しているという事実。
  • 個別性:ひとりひとりがみな、個としての違いをもっているということ。あなたはあなた、わたしはわたし、であるという事実。
  • 相互性:ひとりひとりがみな、ひとりでは生きることができず、他者によって支えられ、またわたしも他者を支えているということ。人はみな、支え合って生きているという事実。

この事実は、誰しもが無意識にであっても明確に経験していることだと思う。大切なのは、その経験を自分の明らかな意識のなかに照らし出してみることだ。社会は人間がいなければ存在しない、人間のふるまいの総体であることに異論はないだろう。人は常に、先にあげた3つの相をダイナミックに移行しながら社会生活を営んでおり、3つの相とその人との関係の仕方が、社会の有り様を規定していると言える。そのことを、自分自身の内側の体験を敷衍していくことでリアルに感じることができれば、私たちはよりよく社会有機体とつながっていくことができる。

このことに基づいて、「精神活動」「法活動」「経済活動」の真の意味を探っていこう。

2007年08月11日

「精神活動」「法活動」「経済活動」

前回述べた「個別性」、「一般性」、「相互性」という3つの相は、ルドルフ・シュタイナーの言う社会の3領域、「精神活動」、「法活動」、「経済活動」のなかで働く原理である。

  1. 精神活動

    精神活動(精神生活とも)の領域は、人間の「個別性」に関わる社会生活のすべてが属している。その人の才能、物事の考え方、身体能力や性格など、その人固有の事柄に関わることすべてがこの領域に帰属する。

  2. 法活動

    法活動(法・国家生活とも)の領域は、人間の「一般性」に関わる社会生活のすべてが属している。純粋な人間性の観点から見て人が人間らしく生きるための、尊厳や権利に関わる事柄すべてがこの領域に帰属する。

  3. 経済活動

    経済活動(経済生活とも)の領域は、人間の「相互性」に関わる社会生活が属している。人が人間らしい生活を営むために、商品が生産され、流通され、消費されるまでのプロセスがこの領域に帰属する。

ルドルフ・シュタイナーの社会論の肝は、人間がもつ「個別性」、「一般性」、「相互性」というそれぞれの相が、社会の中にはっきりと独立した領域として表現されていくという一点に尽きる。個別性の原理がきちんと精神活動の領域のなかで働き、一般性の原理は法生活のなかで、相互性の原理は経済活動のなかで働くときに、社会は健康を維持することができるという。それはそうだろう。まず、「一般性」と「個別性」を同じ鍋のなかに入れることはできない。

たとえば人は自分の仕事を選ぶときに、多くの場合、自らの個性に適合する職業を探そうとするだろう。そこでは個別性の原理が働いている。同じその人が失業したとする。その人は職業安定所に赴き、失業保険を請求する。失業保険は、働く者すべての権利として、その人の個性にかかわりなく支給される。そこでは一般性の原理が働いている。

もしも失業保険の支給がその人の能力や信条などによって左右されるとしたら、私たちが人として生活する権利が脅かされることになる。また、職業がその人の適性にかかわりなく、平等に分配されるなら、社会はたちまちのうちに麻痺してしまうことだろう。

「相互性」もまた「個別性」「一般性」とはかみ合わない。経済循環において、生産された商品は平等に分配されればよいというものではないし、ある特定の才能をもった人物に独占されるようなことがあれば、それもまたおかしなことだろう。経済は、供給力とニーズの相互性のなかでバランスが保たれるときに、もっとも健全さを保つことができる。

以上の原理を踏まえて、社会のなかのさまざまな活動の本質が、「精神活動」、「法活動」、「経済活動」のどこに位置づけられるのか、さらに見ていきたい。社会の意外な様相がそこに現れることに、驚かれるかもしれない。

2007年08月22日

自由ヴァルドルフ学校の「自由」とは?

名称の問題はまだまだある。

「自由ヴァルドルフ学校(Freie Waldorfschule)」、「精神科学(霊学)自由大学(Freie Hochschule für Geisteswissenschaft)」等々についている「自由」という言葉が何を意味をしているのかについて、皆さんは熟考したことがあるだろうか。

キリスト者共同体の小林直生さんに指摘されて初めて私も気づいたのだが、私の場合、それを指摘された瞬間に「なーんだ」という思いがわき起こり、そのうちにじわじわと「やはりそうだったか!」という感動が押し寄せてきた。

もったいぶらずに明かすと、ここで用いられている「自由」は、いわば「私立」の意味で使われているのであって、ヴァルドルフ教育の内容に関する主義主張とは一切関係がないということなのだ。つまり、ここでの「自由」は、国家等から独立した自主教育機関であるということを謳っているに過ぎない。

私たちは「自由」という言葉に弱い。ついつい、思い入れたっぷりに「自由○○××」と掲げたくなるのであるが、ここでは「私立」とか「自主」と書いた方が本来の趣旨に近いということをしっかり意識しておきたい。なぜならこのことは、ルドルフ・シュタイナーの社会論に照らしても、非常に大きな意味があるからだ。

「精神活動」「法活動」「経済活動」の記事で少し触れたが、ルドルフ・シュタイナーの社会論では、社会における精神活動の領域の自立性が非常に重視されている。学校のような文化活動は、経済貢献に適した人材を求める経済界からの要求や、恭順的な人間を求める国家からの要求から、完全な自立を保つことがひとつの理想である。そのことが実現することによって、社会は、すでに存在している外的な要因に引きずられるのではなく、発展の要因を自らの内側に確立できるということなのだ。

2002年に小泉内閣の特区制度が火をつけ、藤野の学校法人シュタイナー学園の認可にひとつの結実をみた「教育の多様性の会」という動きがある。ヴァルドルフ学校というひとつの教育信条を超えて、あらゆるオルタナティブ学校の実現を目指す人たちが手を結んだこの活動の目的は、まさに日本において教育の自主独立の可能性を拓くことにある。

ヴァルドルフ学校が、そんな大きな社会の流れの一翼を担う活動として、意識して「自主」を謳っていくようになれば、ほんとうに素晴らしいことだと思う。

2007年08月24日

これで決まり、だね!

何気なくしたチョイス。何気なく発した言葉。

そんな何気なさのなかにすごい知恵が働くことがある。

このブログの名称、本当に何気なく選んだ言葉だが、日を経るごとに「これだ!」という思いが高まってくる。

ルドルフ・シュタイナーの社会有機体論は、社会を3つのパートに区分するという意味で、ドイツ語の原文ではDreigliederung(ドライグリーデルンク)と呼ばれている。Dreiは三で、Gliederungは区分とか分節を意味する。直訳すれば三分節(この訳は高橋巖さんが採用している)とか三区分となるが、なぜか日本語では三層構造と訳されることが多い。確かに三分節や三区分よりは語呂がよいし、イメージを喚起する言葉だと思う。しかし、この訳には問題がある。ルドルフ・シュタイナーの語る社会の3つの領域の関係性は、階層構造をもたないからだ。

「層」という言葉にはもともと重なりの意味が含まれているから、その言葉から思い浮かべるイメージのなかにどうしても縦方向の関係性を感じてしまう。英語訳もThree foldingと、若干似通ったニュアンスを感じる。三層構造は、もしかしたら英訳語の語感から取ってきた翻訳なのかもしれない。

しかし、この3つの社会領域の関係に上下関係が入り込んでくることが不健康なのだ、とルドルフ・シュタイナーは言いたいのであって、関係性として見るならばむしろ「三つ巴」のイメージがもっともふさわしいと私は思う。

このDreigliederungの訳語をめぐって、いろいろ思いをめぐらせてきた。小貫大輔さんがフィリピンの活動家ニカノール・ペルラスさんの社会論の著書を訳そうと言いだしたときも、いい訳語がないかと知恵を出し合った。三分節、三区分、三領域、果ては三つ巴社会論というアイディアも(笑)。しかし、どうもしっくり来ない。

どうもこういうものは、井上陽水の歌のようなもので、探すのをやめたときになって見つかるものらしい。

三相至嘱?、三相至嘱?!、おっ、おお、をををっ! エウレカ、これだ! 三層構造ならぬ「三構造」。これしかないでしょう。

「相」にはフォルムという意味もあり、また性質という意味もあり、相互性という意味合いも含まれる。ルドルフ・シュタイナーの社会有機体論を示す言葉として、これ以上のものがあるだろうか。

というわけで、今日からは「三相構造」。ははっ、ははははっ! これはうまい。「ドライフトワンに合うワード」に認定だ! はっはっはっ。

ドライフトワン公国
エミール・モルツ王子

2007年08月29日

ルドルフ・シュタイナーの経済論1

ある方から、経済についての本の編纂に参加しないかと誘いを受けた。三相化社会論とともに取り組んできたテーマなので、とても嬉しく思い、すぐに参加の意思をお伝えした。

社会有機体論の話題もまだ書きかけだが、並行しながら、経済論についてもここに書いていきたいと思う。以前、環境問題との相関関係において経済についての小論を書いたのだが、友人から「よくわからない」と言われたこともあり、なんとか「わかる経済論」を目指したいと思う。皆さんからもぜひ突っ込みをお願いしたい。

まずはルドルフ・シュタイナーの経済学を大きく俯瞰してみよう。

一般的な経済学は、経済の活動のなかにただひとつの循環を見る。商品の生産、流通、消費、そして再生産…という循環だ。これはルドルフ・シュタイナーの経済論でも同じことだが、その循環と対をなすもうひとつの大きな循環の存在に気づき、そのふたつの大循環の相関性において経済の本質を捉えていくところがルドルフ・シュタイナーの経済論の特徴のひとつだと思う。

その、もうひとつの大循環とは、経済活動に注ぎ込まれる人間の精神活動の循環のことである。

経済の原点は、自然からとられた物資をお互いのニーズに従って単純に交換するところにある。しかし、人間の営みが複雑になるに従い、単純に自然からとってきた物資に手を加えて、より大きな価値を商品に付与することで、経済に新しい要素が加わることになった。物資の原価に上乗せされる付加価値として表現されるもの、それは人間の才知であり、精神活動である(人間の労働を精神活動の領域に位置づけることができる点については、また後で触れる)。ルドルフ・シュタイナーは、この付加価値=人間の才知の循環に目を向ける。これをここでは「経済の精神的循環系」と呼ぶことにしよう。

経済の物質的な循環は、自然から物資が採取され、商品が生産され、流通され、消費され、それがふたたび自然に還るところで一巡する。一方、経済の精神的循環は、人が教育を受け、自らの才能を伸ばし、その才能をもって経済活動に関わるところに源をもつ。経済の物質的循環系においての「自然」に相当するのが、経済の精神的循環系においては、三相構造でいうところの「精神活動の領域」だ。その才知が商品に付加価値として加わり、商品とともに流通過程にのって運ばれていく。そして消費者の手に渡り、物質としての商品は最終的には自然に還っていく。しかし、商品に加えられた付加価値はそこで消滅するのではない。

ここが経済の精神的循環の要となるところなので、次項でじっくりと考えてみたい。

2007年09月12日

イエナプラン教育を日本に1

永田佳之著『オルタナティブ教育―国際比較に見る21世紀の学校づくり ―』新評論2005

先日、元国立教育政策研究所の研究員で、今年の春から聖心女子大の准教授に就いた永田佳之さんとお話する機会を得た。お子さんをオーストラリアのヴァルドルフ学校に通わせた経験もあり、ヴァルドルフ教育にも理解のある研究者で、「シュタイナー教育の最大の特徴はセレンディピティーがあること」という彼の持論は傾聴に値すると思う(セレンディピティーというのは、意図せずにいろいろな宝物を手にする才能というような意味で、「幸運力」とでも訳せるかもしれない)。

比較教育学の専門家である永田さんと日本のオルタナティブ教育の状況について話しているなかで、オルタナティブのなかでヴァルドルフ教育だけが独走しているのが気になるね、ということが話題になった。永田さんによれば、これは日本に限ったことではないらしく、世界中でヴァルドルフ学校がダントツの躍進を見せているのだ。ヴァルドルフ教育の柱になる理念が明確にあり、カリキュラムや教員養成が整備されていることが、その躍進を支えている。

リヒテルズ直子著『オランダの個別教育はなぜ成功したのか ― イエナプラン教育に学ぶ ―』平凡社2006

これは喜ばしいことかと言えば、そうとばかりも言っていられない。社会というものは多様性によって健全性を保っていくものだし、オルタナティブな選択のなかで自分と比較できるような「朋友」がいることでヴァルドルフ教育も自分たちを客観視する視点をもちうると思う。ヨーロッパやアメリカが経験したように、ヴァルドルフ教育の突出ぶりが社会のなかに反感を呼び起こし、大規模なヴァルドルフバッシングにつながる可能性もある。

それに、世の中には、公教育には満足できないけれども、ヴァルドルフ教育も肌に合わないという人もいる。そのような人たちが学校探しをするなかで、ヴァルドルフ学校の門を叩くこともあるはずで、そこで適切な対応ができることはとても大切だ。自分たちのことだけに必死であればよいという時代は終わったのだと思う。そのためにも、ヴァルドルフ教育関係者がオルタナティブという視点をもつことが、ますます必要とされてきていると感じている。

そんななか、イエナ・プランという教育メソッドについて詳細に紹介する催しの情報が飛び込んできた。月刊オープンフォーラムでもご紹介した、オランダ在住のリヒテルズ直子さんが進めている企画だ。個別教育を重視するイエナ・プランの実践は、ヴァルドルフ教育を目指す人たちにも刺激的な内容をもっていると思う。

世界で子どもが一番幸せな国オランダのイエナプラン教育
― 一人ひとりの子どもを育てるマルチエイジの小学校 ―
シンポジウムとワークショップ
2007年11月10日(土)11日(日)
主催:オランダ・イエナプラン教育の会
後援:在日オランダ大使館、朝日新聞社、平凡社
協賛:株式会社カグヤ
http://home.planet.nl/~naokonet/eventguide.htm http://www.freeml.com/diversity/4803

社会のなかで「ともに発展していく」という感覚を磨くことが、ヴァルドルフ教育の真の発展の鍵を握っている。イエナ・プランのような動きに注目していくことは、そのための大きな助けになることは間違いない。

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