ある方から、次のようなメールをいただいた。
「感覚フォーラムにとても興味があります。ここ名古屋でも何かできないかなと考えているところです。残念なことに秋の東京での会は他用があり参加できませんが、又いつか参加したいです。30年も前、嫌煙権運動に参加していましたが、その時は今のような禁煙社会が来ると言う希望もなく、ダメモトでやっていましたので、今電車などに乗る時は感無量です。感覚フォーラムもいつか静かな環境が来ることを期待して、静かに粛々とやっていくことが大事でしょうね。勝手なことを書きましたがお許しください」。
たいへんありがたいメッセージだ。感覚フォーラムをスタートするにあたって嫌煙権の事例を参考にしたのは、感覚フォーラムの本質を自らに向けた権利運動として位置づけようと考えたからだ。
感覚フォーラムの活動の先には、日本社会における健全な権利意識の発展という大目標がある。日本の社会は、往々にして個人の権利を単なるわがままとして切り捨ててしまう、個人やマイノリティーの権利が抑圧された社会だ。
国の力が弱まり、社会運営を市場原理に預けてしまおうという政治的なベクトルが働くいまという時代は、社会運営を市民が担っていくというもうひとつの道を示すチャンスでもある。しかし残念ながら、その道を示して行くには、いまの日本の市民社会はあまりにも未成熟。強い国家に支えられた親方日の丸の依存体質のなかで、市民の権利意識はよちよち歩きの段階にある。その未熟な権利感覚を保守層は攻撃し、ますます人々は権利から遠ざかるという悪循環のなかで、私たちにいったい何ができるのか。
私は、権利というものの本質を、とらわれのない目でもう一度とらえ直すことが大切だと思う。真の権利意識というものは、多くの保守的な人たちが考えるようなエゴではない。むしろ、自分が人間であることの土台を築くような、根元的な人間の尊厳から生まれてくるものなのだ。自分を純粋な人間として見つめたときに、そこに存在する人としての尊厳を、ひとりひとりの市民が自分のなかに確認していく作業こそ、感覚フォーラムの真骨頂だと思う。
「感覚の尊厳」というキーワードは、そのことを考え、育むための、最高の素材だと思う。
