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社会論に導かれたきっかけなど

ルドルフ・シュタイナーの社会有機体論についてこつこつ研究してきた。

きっかけは、日本ルドルフ・シュタイナーハウス(現日本アントロポゾフィー協会)の会費制をめぐる議論だった。

当時、「社会問題の核心の会」という読書会で、ルドルフ・シュタイナーの『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』を読んでいた私は、ハウスのなかで語られる「経済の友愛」という言葉と、ルドルフ・シュタイナーが著書のなかで語る内容の間に大きな齟齬があることに気がついた。

若輩者の私は、自分自身の読み方が間違っているのか、ハウスのオーソリティーの理解が誤っているのか、確かめたいという一心で、オーソリティーたちに問いを投げ、機関誌に記事を書き、果ては協会の総会に「三層構造を生きる」というテーマを推してシンポジウムを開きもした。しかし、論点はなかなかかみ合わない。理由は、当時のオーソリティーたちにとって、三層構造がファッションでしかなかったことに尽きる、と思う。

当時(1990年台前半)は、アントロポゾフィーに関する文献もまだまだ少なく、活動の原動力の多くをオーソリティーに依存していた。勢い、オーソリティーたちはジェネラリストであることを求められ、アントロポゾフィーのあらゆる分野をひとりで紹介するという役割を引き受けなければならなかった。たとえ社会的分野へのセンスがなくても、三層構造をひととおり説明できなければならない。その状況が、ルドルフ・シュタイナーの社会論についてのあまりにも大きな過ちに、私たちを引き込んでいく。

問題は大きくふたつにしぼられる。ひとつは、ルドルフ・シュタイナーの社会論がマクロな社会についての論であるにもかかわらず、わずかな人たちのグループにもそれが適用できるとという思い込みであり、もうひとつは、経済という術語の誤った解釈だ。

これはゲーテアヌム理事ポール・マッカイとの話しあいで彼が指摘してくれたことだが、ルドルフ・シュタイナーが問題にする社会の三つの領域、精神生活、法生活、経済生活は、それぞれが対応する社会の最小単位を異にしている。精神生活はたったひとりの個人から関係してくるものだが、法生活はひとりでは始まらない。複数の人間関係のなかではじめて意味をもつ領域だ。そして、経済はより大きなスケールの社会でのみ意味をもつ。

もうひとつ重要なのは、ルドルフ・シュタイナーが使う「経済」という言葉の定義だ。ルドルフ・シュタイナーは、「経済」という言葉を、非常に厳密なかたちで用いている。それは、商品の生産と流通と消費に関わるプロセスのことであり、そこにはお金は含まれないということ。だから、商品を生み出さない共同体のなかには、経済領域はそもそも存在し得ないのであって、アントロポゾフィー協会や学校などの共同体運営に三分節社会論を持ちこむことには無理があるのだ。

『社会問題の核心』を素直に読めばすぐに分かることなのだが、一度広まってしまった先入観を払拭することはたやすいことではない。ヴァルドルフ学校や幼稚園のなかにまで広がった「経済の友愛」ドグマによって、多くの悲劇が生まれることになった。

しかし、ここでこのことを深追いすることはしない。すべての出来事には意味があるのだ。私自身にとっても、このことで経験した葛藤は、その後の社会論探求の礎ともなり、まったく畑違いの私にもルドルフ・シュタイナーの素晴らしい経済論に目を開かせてくれるきっかけをあたえてくれた。

そのことに感謝しつつ、これから私の学んだことを多くの方とシェアできればと思う。先人たちがそうであったように、私自身も誤解していることもあるだろう。お気づきの点があればご指摘いただければ幸いだ。ただし、すぐにレスをつけられないことが多いと思うので、その点はご容赦いただければと思う。

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2007年08月09日 12:32に投稿されたエントリーのページです。

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