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自由ヴァルドルフ学校の「自由」とは?

名称の問題はまだまだある。

「自由ヴァルドルフ学校(Freie Waldorfschule)」、「精神科学(霊学)自由大学(Freie Hochschule für Geisteswissenschaft)」等々についている「自由」という言葉が何を意味をしているのかについて、皆さんは熟考したことがあるだろうか。

キリスト者共同体の小林直生さんに指摘されて初めて私も気づいたのだが、私の場合、それを指摘された瞬間に「なーんだ」という思いがわき起こり、そのうちにじわじわと「やはりそうだったか!」という感動が押し寄せてきた。

もったいぶらずに明かすと、ここで用いられている「自由」は、いわば「私立」の意味で使われているのであって、ヴァルドルフ教育の内容に関する主義主張とは一切関係がないということなのだ。つまり、ここでの「自由」は、国家等から独立した自主教育機関であるということを謳っているに過ぎない。

私たちは「自由」という言葉に弱い。ついつい、思い入れたっぷりに「自由○○××」と掲げたくなるのであるが、ここでは「私立」とか「自主」と書いた方が本来の趣旨に近いということをしっかり意識しておきたい。なぜならこのことは、ルドルフ・シュタイナーの社会論に照らしても、非常に大きな意味があるからだ。

「精神活動」「法活動」「経済活動」の記事で少し触れたが、ルドルフ・シュタイナーの社会論では、社会における精神活動の領域の自立性が非常に重視されている。学校のような文化活動は、経済貢献に適した人材を求める経済界からの要求や、恭順的な人間を求める国家からの要求から、完全な自立を保つことがひとつの理想である。そのことが実現することによって、社会は、すでに存在している外的な要因に引きずられるのではなく、発展の要因を自らの内側に確立できるということなのだ。

2002年に小泉内閣の特区制度が火をつけ、藤野の学校法人シュタイナー学園の認可にひとつの結実をみた「教育の多様性の会」という動きがある。ヴァルドルフ学校というひとつの教育信条を超えて、あらゆるオルタナティブ学校の実現を目指す人たちが手を結んだこの活動の目的は、まさに日本において教育の自主独立の可能性を拓くことにある。

ヴァルドルフ学校が、そんな大きな社会の流れの一翼を担う活動として、意識して「自主」を謳っていくようになれば、ほんとうに素晴らしいことだと思う。

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2007年08月22日 09:27に投稿されたエントリーのページです。

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